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いつかこの「好き」に名前がつく日はくるのだろうか




好きって、愛ってなんだろう、と、六本木駅のホームで電車を待ちながら考えた。

数分前に別れた彼は、方向音痴で乗り物が苦手なわたしがちゃんと正しい電車に乗れるようにと、わざわざ大江戸線の改札の前まで一緒に来てくれた。

本当は、わたしだって何度も六本木駅は使ったことがあるし、どのホームから電車に乗ればいいのかも、もちろん知っていた。

だけど、あともう少しだけ一緒にいたかったし、彼が当たり前のように注いでくれる優しさに、少しでも長く浸っていたかったから、何も言わずにへへっと笑ってエスカレーターの後ろに並んだ。




彼はきっと、そういうさりげない優しさを当たり前に与えることができる人だ。仮にこういう関係じゃなかったとしても、そうすることによるメリットが何もなかったとしても、たぶん改札まで来てくれたと思う。

それは、わたしが彼を人としてとても好きなところだったし、一緒にいて安心できる理由のうちの一つだったのだけれど、そういう優しさは、わたしをますます混乱させた。

「わたしはあなたにとって、どんな存在なの?」
「どうして今日、誘ってくれたの?」

今日こそは絶対に聞くんだ、と決めて何度も頭の中で反芻した言葉は、今日もわたしの頭の中でただぐるぐると回転して、お腹の底の方に潜っていって、口から出ることはなかった。




大人の恋愛は、曖昧なことを受け入れること。
すべてを知ろうとせずに、大体のことには目をつぶって、今自分の目の前にいるその人だけを真実だと思うこと。

どこかで聞いたり読んだりしたこれらの言葉の本当の意味が、彼に会うたび実感を伴って身に迫ってくる。


指輪もしていない。
結婚してるんだ、とも言われていない。

だけど、きっとそうなんだろうなということは、薄々わかっていた。

その人との関係性も含めて、わたしが今目の前に見えていないことを、知ろうとは思わない。

ただ、わたしと彼の関係性についてだけは、知りたい、と思う。

思うけれど、聞けずに自分の弱さを噛み締める帰り道は、今日で5回目だった。





彼の顔が目の前に迫ってくるとき、思い切って真っ直ぐに彼の目を見つめてみる。

そのときの表情が、わたしの知っている「誰かを愛おしいと思っているときの表情」に似ていて、期待してしまいそうになる。

「今、何を考えているの?」
「あなたがわたしに感じている感情は、何て名前なの?」

そう聞いてみたくて、でも聞けなくて、必死に目を見つめることしかできない。そんなわたしの目を見て彼は、わたしが考えていることをすべて読んでいるのかもしれないな、といつも思う。

彼はわたしの心を読むのが得意で、わたしは彼の心の片鱗すらも見えない。

だからわたしは、彼の体温を、その表情を、全身で受け止めることしかできない。それらだけが、わたしにとっては真実で、現実だ。






好きって、愛ってなんだろう。

改札の前で手を振って別れた後、彼の温もりがもうすでに過去になっていることを感じながら、考えてみた。

そもそもわたしは、自分の気持ちすらわかっていない。

これがなんていう感情なのか、考えても自分の中に思い当たる言葉がない。

彼のことを、好き、と思う瞬間はある。
でもこれが恋なのかと言われたら、それはちょっと違う、と思う。

私が知っている恋は、もっと甘くて痛くてどうしようもなくって、全力で駆け出したくなるような気持ちだ。

それに比べたら、彼に対する気持ちは結構冷静だし、ときめき、なんていう可愛らしい気持ちとは、別物だと思う。

かと言って、穏やかな愛、とは状況からして言い難いし、そんな綺麗な言葉で表現しようとも思わない。

でも、わたしはいつも、彼に会いたかった。

会いたい、この気持ちがわたしを強く支配して、その他のことをすべて投げ捨ててでも、会いに行きたい衝動に駆られることがある。これだけは、紛れもない事実だった。





彼の、子供の頃の話を聞く。
新しくできたお店に、一緒に行く約束をする。
いつも少し早歩きだった、彼の歩く速度が弱まる。

そんな些細なことが積み重なっていくたびに、あたたかい気持ちと心細い気持ちが複雑に絡み合って押し寄せてくる。

わたしたちは、これからどこまでいけるんだろう。いつまでこうしていられるんだろう。

もし、こんな関係じゃなかったら、その先を想像することもあったのだろうか。この気持ちが、わたしが知っている恋に変わることも、あったのだろうか。

そんな風に考えることもあるけれど、たぶん、そうだったら最初からわたしたちは惹かれ合っていなかっただろうな、とすぐに思い直す。

それだけはなんとなく、わかっていたから。






この名前のつけられない関係性が終わるまでに、この「好き」の正体が何なのか、わかる日はくるのだろうか。

わかったらいいな、とも思うし、一生わからないままかもしれない、とも思う。

どちらにしても、わたしはきっと、彼を好きだという気持ちが続く限りは、この道を進んでいくのだろう。

好きでいる限り、しばらくは、きっと。

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