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秋と冬の境目を歩く朝、ふたつの幸せを想う


雨の音で、目が覚めた。


窓は開いていないはずなのに、部屋の空気はひんやりとしていて、心なしか澄んでいるような気がする。


まだ、夢と現実の間をふわふわと漂っている気分だった。


薄いタオルケットを肩のところまで引き上げ、まどろみながら、しとしとと静かに地面を濡らす雨音に意識を向ける。


昨日の夜、彼から借りた半袖Tシャツから出た左腕は、もうすっかり一晩で冷えきっていたけれど、身体の右半分は、彼の体温であたたかかった。





「おはよう」


隣で何度かそう呟いた彼の声を、目を閉じたまま反芻する。


ほんとうは寒くてずっと前から起きていたのだけれど、わたしは2回目まで、聞こえないふりをしていた。


3回目でようやく返事をして、眠たい目を擦って右側に寝返りを打ち、彼と向かい合う。


今日も、いつもの朝がきた。





朝起きてから彼の家を出る前の数十分間が、いちばん恋しくて、愛おしい時間だ。

昨日のお昼に待ち合わせをしてから、もう20時間は一緒にいるのに。それでも変わらず、恋しく感じてしまうのはなぜだろう。いつも不思議に思う。

べつに「今生の別れ」というわけでもないのに、なんだか寂しい気持ちが溢れてきて、そんなに手間がかからないはずの身支度に、ついつい時間をかけてしまう。


彼はそんなわたしが身支度を終えると、どんなときでも必ず


「かわいい!」


と嬉しそうに言ってくれる。


その無邪気な表情をはやく見たい気持ちと、もう少しだけここにいる時間を引き延ばしたいという気持ちが、いつも心の中で鬩ぎ合う。





わたしがどんなにゆっくり支度をしたところで、家を出る時間が変わらないことはわかっていたから、今日はいつもより簡単な化粧で済ませることにする。


支度を終えて部屋に戻ると、彼は窓を背にしてベッドにもたれていた。


手にしたスマホに目線を注いだまま、


「今日、15度だって。急に寒くなったねえ」


と言ったけれど、その表情はまったく寒そうじゃなかった。


彼の背中越しに見える景色は、雨で真っ白になっている。窓の隙間から冷気が入り込んでくるようで、見ているだけで身震いしてしまう。


そんな様子に気づいたのか、彼は両腕を横に大きく開いてわたしの方を見上げる。


彼の腕の中に滑り込むと、鼻先数センチのところに窓ガラスがあって、雨に濡れるその板の向こうに、運送会社のおじさんが忙しなく動いているのが見えた。


顔をひんやりとした空気が覆い、思わず目を瞑って空気を吸い込む。窓は開いていないのに、なんだかとても新鮮な空気が身体に入っていくような気がした。


「今年はじめてクローゼットから出してきた」という薄手のニットを着た彼は、やっぱりいつも通り体温が高くて、すぐそこにある外気との差に驚く。


お喋りな彼が今日は珍しく無言だったから、わたしは引き続き、窓の外を眺めることに専念する。


「あと何分、こうしていられるのかなあ」


と、頭の片隅でふと時間が気になったけれど、彼のような研ぎ澄まされた時間感覚がない自分がそんなことを考えても、きっとわからないからいいや、と思い直す。


それに、「もっとこの時間に身を置いていたい」という気持ちのほうが、勝ってしまった。


すぐそこにある冷気と、彼の体温を交互に感じながら、わたしは時の流れを、身体からすっかり切り離すことにした。






それでもお別れの時間は、何食わぬ顔でやってくる。


外に出ると、想像していたよりもずっと、空気が冷たかった。そのうえ風も吹いている。


「うう、寒い」


わたしが身震いすると、いつもなら寒さに弱い彼が平然とした顔で、


「俺は、冬には強いんだよね」


と、なぜか得意気な顔をする。


「昨日は、夏みたいだったのになあ…」


暑いのが苦手なわたしは、前日の気温に合わせて薄手のワンピースを着ていた。


毎年覚悟はしているのに、秋はいつも、わたしが思っているよりも早く、その姿を消してしまう。





足早に駅に向かっている途中、コートを着た男の人や、ブーツを履いた女の人とすれ違った。


こんなにも季節が早く移り変わることに、わたしは毎年、その前の年と同じように驚いている気がする。


「季節が変わる瞬間を、逃したくない」というのは、昔から持つ強いこだわりで、秋の気配がすると、毎晩窓を開けて外の空気を吸い込み、そのせいでよく風邪を引いていた。


彼はあまりそういうことには関心がないようだったけれど、わたしは彼と一緒にこの境目に立ち会えたことが、実は少しうれしかった。





「俺はこっちの電車だから、ここでお別れだね。気をつけてね。」


いつもはわたしが駅まで見送ってもらって、ひとりで改札の中に入るから、改札の中でふたりで手を振り合うのはなんだか新鮮だった。


「うん、気をつけて。またね。」


そんな風に言って歩き始めたとき、ふと、わたしたちが一緒に住むようになったら、この後また家に帰って、「おかえり」「ただいま」って言い合うのかなあ、とぼんやり思った。


そうなったら今のように、毎回家を出る数十分前に恋しい思いをすることも、なくなるのだろうか。それはそれで、何だか物足りないような気もする。


でも、朝目が覚めたとき隣にいて、一緒に家を出て、帰ってきたらまた会えるってなんだかいいなあ、と、いつかどこかで聞いたことのあるようなことを思った。




今年のハロウィンは、どんな風に過ごそうかなあ。


ひとりの帰り道は、暖をとる方法がなくて、「寒い」と言う相手もいないから、せめて何か楽しいことを考えて気を紛らわせることにした。


彼とはいつか、一緒にディズニーランドに行ってみたいし、お家でお菓子を食べながら、ゆっくり映画を観るのもいいかもしれない。


そんな想像をひとりで膨らませながら、これからも一緒にいるのだとしたら、今年全部やらなくてもいいか、とふと思った。


むしろ、楽しみは取っておいた方がいいかもしれない。


きっと彼はハロウィンのことなんて1ミリも考えたことないんだろうなあ、と思ったけれど、何をしてもうれしそうに笑っている無邪気な笑顔を思い浮かべて、わたしも少し、うれしくなった。





「お別れの時間」があるからこそ生まれる恋しさと、ないからこそ生まれる、ゆるやかな幸せを交互に思い浮かべてみる。


わたしにとってはどちらも愛おしくて、同じくらい大切なものだなあと思う。


今わたしが考えていることを話したら、彼はなんて言うだろう。想像したら、数十分前に見たのと同じ笑顔がぱっと浮かんだ。


秋と冬の境目を踏み締める、足取りが軽くなる。


さっきよりも少しだけあたたかくなった、ような気がした。







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