見出し画像

春の空気を連れてきて


春の空気のような人。

それが、彼の最初の印象だった。


「あ、おつかれさまです」

そう言って現れた彼は、そこにいるだけで

空気を一瞬でやわらかくしてしまうような、

あたたかみのある笑顔が印象的な人だった。

思ったより、大人びた顔立ち。服は全身、黒。

なのに、なぜかとても中性的で、和やかで、

鋭さを全く感じさせないのが不思議だった。

つられてこちらも口元がゆるんでしまう。

温度が空気を伝い、心の壁を溶かしていくのを、

ゆっくりと感じた。


春の、空気のような人だ。最初にそう思った。

決して存在感が薄いという意味では

ないのだけど、気づくと目の前にいることを

忘れてしまうほど、極めて自然に、

こちらの空気と一体化して、溶け込んで、

自らの存在感をやんわりと消してしまう。

空気みたいだ。

出会ったときから、そう感じていた。


彼は、限りなくこちらの空気に溶け込んだ。

けれど、たしかにちゃんとわたしの話に

耳を傾けてくれていて、特にこれといった

コメントを挟むわけではないのだけど、

こちらの思考を邪魔せず静かに微笑んでいる。

ただそれだけなのに、なぜだかいつも、

彼がそこにいなければ気づくことができない

気持ちを、わたしは見つけることができた。

彼にはそんな、不思議な力があった。


季節は、春だった。

ふんわり穏やかにそこに存在する、

ひだまりのような佇まい。

それはまるで、全てをやさしく包み込む、

淡い春の空気のようだった。

包み込むだけではなくて、最後に、

ときめきに似た胸の高鳴りを残して去っていく

ところが、もう、完全に、春だった。

いつも彼に会うたび、その煌めきの残片は、

わたしの中の雪をゆっくり やさしく解かし、

新たなはじまりを告げていた。

会うまでの道のりよりも、帰り道のほうが、

心が弾んで足早になる。

その感覚が、嬉しくて嬉しくて、仕方なかった。


服装は、いつも全身黒であることが

多かったのだけど、わたしの中でのその人は、

淡い色が少しだけ付いた、限りなく透明に近い、

橙色だった。

けれどその淡い色は、一緒にいる相手によって、

色を変えているようにも見えた。

厳密に言うと、変えている、というより、

自然と変わっている、と言った方が

正しいかもしれなかった。

限りなく透明に近い春の空気をまとった彼は、

常に穏やかに、ふんわりとした佇まいで、

それなのに、芯は硬く、凛としていた。

そしてそれは誰もが一瞬で感じ取れるような、

静かだけれど、強い輝きがあった。


春、雪が解けて、季節はもう、

3つ目の秋に差し掛かっている。

あれからわたしは、特に大きな花を咲かせた

わけでも、枝をぐんぐん伸ばしているわけでも、

たぶん、ない。

けれどあの日、たしかに雪は解けた。

そしてわたしは、雪の下に隠れていた、

小さな種をみつけた。

それが芽を出すものなのか、そもそも種と

呼べるものなのか、今はまだわからない。

わからないけれど、それは、どちらでもいい。

そう思えるくらい、わたしにとっては大切な、

小さなひとつの種をみつけた。


これから先、何度も厳しい冬がくる。

それでもきっと大丈夫だと思えるのは、

わたしの心の中で、あの日の春が、

たくましく生きているからだろう。

あの日、彼が連れてきた春の空気は、

気づくと種を隠してしまうような雪を、

今もやさしく解かし続けている。


いただいたサポートは、もっと色々な感情に出会うための、本や旅に使わせていただきます *