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明日世界が終わるとしても、愛を伝え続けたいあなたへ。




久しぶりに、彼に会った。

「友達に戻ろう。」そう決めた日から、会うのは今日が初めてだった。



顔を合わせていなかったのはたったの2週間なのに、なんだか懐かしいような、あたたかな感情がじわりと胸に広がる。

「髪、切ったんだね」

「うん、似合う?」

そんな会話すらも、なんだかぎこちない。

時間はほとんど経っていないのに、なんだか数年ぶりに再会したみたいな、居心地の悪い、でもほんの少し甘ったるい、そんな感情がざわざわと心の中を埋め尽くす。






今日は彼の、少し遅めの誕生日祝いだった。

泊まったり、プレゼントをあげたりするのはさすがに控えようという話になったのだけど、自分の誕生日を盛大に祝ってもらった手前、このタイミングで別れたとは言え、彼の誕生日を無視するわけにはいかなかった。

「プレゼントはあげられないけど、そのかわり、好きなもの、なんでも頼んでいいよ。」

そう言って、ずっと一緒に来たかった、ビストロにやってきた。



「これ、今まで食べたレバーの中で、一番美味しいね。」

「ドイツで食べた生肉を思い出す味だな。あれまた食べたいねえ。」

わたしたちが外で食事をすると、自然とこんな会話になる。

特に、本場の味に近いイタリアンやフレンチを出しているようなお店に行くと、懐かしくて、ついついヨーロッパ旅行をした時のことを思い出して、話を持ち出してしまう。

思い出すと、その頃の楽しかった日々が、まるで昨日のことのように鮮やかに目の前に広がる。


そんな話を延々としていたら、目の前のカウンターの向こうで調理をしていたシェフが、話に入ってきた。

「早く、海外に行けるようになってほしいですねえ。」

「本当にそうですよね、早くヨーロッパに行きたいです。」

「おふたりは、よく行かれるんですか?」

「はい。でも去年の3月にポルトガルに行ったきりで、この一年は、全然行けていなくて…」



そんな会話の延長で、「海外に行けるようになったら、まず最初にどこに行きたい?」話はそんな方向へと流れていく。

いつになるかわからないし、その時わたしたちが一緒にいる保証なんて、全くないのに。

それでも、今は彼と、未来の話をしていたかった。

だって今この瞬間手元にあるのは、寂しさ、それだけだから。

だから、もう少し先、数年後の未来のことを、考えていたかった。

数年後のことなんて、今は全く想像もできないけれど、だからこそ、悲しい未来と同じくらい、希望に満ちた未来も、想像できる気がした。






「まずは、クロアチアに行きたいなあ。」

「春になったら、オーストリアの鉄道にも乗りたいね。」

「スイスとヴェネチアの間にある街に行ってみたいんだよね。」

未来を想像するのは、自由だ。

それだけは、数ヶ月後にどんな未来が待っていたとしても、変わらずわたしたちの手元にある、たしかなものだ。

だから今は、たとえ実現することがなくても、未来をふたりで夢みていたかった。


次々に運ばれてくる料理たちは、どれも想像を遥かに超える美味しさだった。

魚介の旨味がたっぷり凝縮されたショートパスタを口に運んだ時、わたしは自然と涙を溢していた。

たぶん、彼は気づいていたと思う。

気づいていて、知らない振りをしてくれていた。

「久しぶりにワイン飲んだから、ちょっと酔っぱらったかも。」

そんな風に呑気な口調でゆっくりと赤ワインを口に運びながら、わたしの方は、見ないようにしてくれた。

その優しさがまた胸に染みて、わたしは自分の涙と魚介の塩気の区別がつかないパスタを、ひとりで黙々と口に運んだ。





どうしてわたしは、彼を手放さなければならなかったんだろう。

失ってからその存在の大切さに気づくのと、一緒にいながら大切さに気づけないのとでは、一体どちらが幸せなんだろうか。

そんなことを、ふと思った。

比べるものではないということはわかっているのだけど、ついそんな、どうしようもないことを考えてしまう。

こんなに涙が溢れるほど好きな人に出会えたことは、きっと幸せなことだったんだ。

そう思うしかない。自分に言い聞かせる。



「うわ〜、このパスタおいしい。魚介の出汁がすごいな。」

わたしと違って普段ほとんど外食をしない彼は、フォークを口に運ぶたび、目を見開きながら、感動を口言葉にする。

そんな横顔を久しぶりに見た気がして、またもやふいに胸がぎゅっと締め付けられる。

ご飯だけじゃなくって、プレゼントも用意してくればよかった。

自分で自分の感情に驚き、戸惑う。

別れを切り出す前までは、誕生日に会うことすら億劫だなんて思っていたのに。今はもっと、彼の喜ぶ顔を見ていたいと思っている自分がいる。


わたしは今まで、こんな風に誰かの笑顔を見たいと願ったことはなかったような気がする。喜ぶ姿をもっと見たい、幸せにしたいと願ったことなんて、なかった。

だっていつも、わたしは自分が喜ぶことしか考えてなかったから。自分の感情にしか、目を向けてこなかったから。

これを愛と呼ばないのなら、わたしはこれから、一生愛なんて知らなくたっていい。

そんな風にすら思えた。初めての感覚だった。


だけど、これはわたしが、別れを選んだからこそ抱いた感情だということは、薄々わかっていた。

きっと、あのまま惰性でずるずると一緒にいたら、絶対に知ることのない感情だった。

そのことが、無性に悲しくて、愛おしくて、なんだかいたたまれない気持ちになった。







「俺は、最強の男になって帰ってくるよ。」

その言葉に、「うん、きっとなれるよ。応援してるから。」としか言えなかった自分の強がりは、はたして正しかったのだろうか。

「最強になんてならなくてもいいから、早く帰ってきて。」

そう言えたら、今頃こんなに涙を流していなかったのだろうか。

わからない。だけどそんなことは、彼の強い眼差しを見ていたら、とても言えなかった。


頑張ってほしい。わたしのことなんてもう追いかけなくていいから、ただ、あなたのやりたいことを、追いかけて欲しい。

保険と負担は、紙一重だ。

わたしの存在が、彼にとって心の支えになる瞬間があったとしても、負担になることが一瞬でもあるのだとしたら、最初から、きっとない方がいい。

彼にとっての甘えになるようなものは、一切ない方がいい、絶対に。


少なくともわたしは、こんな一瞬の気の迷いのために、そんな存在になってはいけない。自分の理性が、そう強く訴えていた。

この時はほんとうに、心から、純粋にそう思ったのだ。それだけは、確かだった。

久しぶりに、こんなに濁りのない、純度の高い気持ちを抱いたなあ。遠くから自分のことを見ていたもう一人の自分が、感心しているのがわかった。






「今日は、ありがとう。」

そう言って寂しそうに笑う彼を見て、電車のドアが閉まる前に、腕を引いてホームに一緒に降りてしまいたい衝動に駆られた。

お酒の力を言い訳にすれば、そんなことは簡単にできるはずだった。

でも、しなかった。

こんな時に限って、いい子の振りをする自分の生真面目さと変なプライドを、心の底から憎んだ。

そして、ほんのり明るい闇と、降りたばかりの電車が彼を乗せて、左側を勢いよく駆け抜けていく音に紛れ、思い切り泣いた。



好きだった。
ううん、今も、大好きだ。

過去形にはしたくない。この先も、できないと思う。

きっとこれから一生、この気持ちは変わらない。

薄れることは、あるだろう。
忘れることも、もしかすると、いつかはあるのかもしれない。

それでも、今、こんなに大切だと思う人はいないと、これからも出会わないだろうと思えることは、わたしにとっては真実で、事実なのだ。

きっとそれだけは、どれだけ時が経っても変わらないだろうな、と思った。





これからもずっと、生涯、大好きな人。

そんな人に出会えただけで、わたしはここに生まれてこれてよかったと思う。

もう二度と出会うことがなくても、この気持ちを、いつか忘れてしまったとしても。

こんなに自分の涙が美しいと思えるような感情を、自分が抱けただけで、幸せなのだろう。






「世界が明日で終わるとしたら、何したい?」

彼が真剣にうーんと悩む横顔を眺めながら、わたしははっきりと思う。

世界が明日で終わるとしたら、わたしは、あなたと未来の話がしたい。

ポルトガルのドウロ川のほとりで、安いワインを飲みながら、ポテトやハムををつまみながら話がしたい。

「あの食堂のイワシ、おいしかったねえ」とか、「次はイタリアの田舎の方に行きたいね」とか、そんな話を、延々としていたい。

本当は、あなたともっと、色んな景色が見たい。

色んな場所に行って、色んなものを食べて、色んな感情を、一緒に味わってみたい。

もっとずっと、一緒にいたい。

世界が明日で終わるとしたら、また新しい世界がはじまる時に、どこに行こうか。そんな話をしていたい。





世界は、明日で終わるわけじゃない。

わたしたちは、生きている限り、きっとまた出会うことができる。

今はそう信じているし、信じたいと思う。

もしかするともう、二度と出会えないかもしれないけれど、それでも、今は。

どうか、どこにいても健やかに、そして笑顔で、ずっとあなたが好きな自分でいてほしい。そう、静かに祈る。

今までありがとう、そして、これからもずっと。

心の中で、愛を伝え続けたいあなたへ。

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