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世界放埓日記

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2018年7月の記事一覧

東京盆踊り

生鮮食品売り場のように冷え切った銀色の乗り物の中に入り込むと、一斉に人の目がこちらを向いたので、私は思わず身をすくめました。
知り合いだろうかと辺りを見回しても、そこには誰も見知った顔がないのです。そもそも人が一人もおらぬのです。
不躾な視線を一方的に感じる不愉快さに耐えかね車内をぐるりと睨め回すと、至る所からこちらに視線を寄越す顔の主は中吊り広告だということがわかりました。
一方的な目線に晒され

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蜃気楼の恋人

蜃気楼の恋人

砂漠に吹く風は、日没と共に柔らかく変化する。
夕暮れに青白く浮かび上がるモスクは、あたかもその身に太陽の熱を溜めていないかのように白く輝いていた。
かといって、冷たい印象を受けないのは、優美な曲線と照明の加減なのだろう。
蜃気楼の残滓から生まれいずる確固たる楼閣は、砂を孕みちりちりとした風を伴って、触れたら和三盆のように崩れてしまいそうに繊細だった。
唐草模様の刻まれた天井を見上げながら、花模様に

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潮騒の恋人

潮騒の恋人

男は海が七つあることを知らなかった。それなのにこれ程に海に愛されている。

「君の故郷のトーキョーには、海はあるのかい」と彼は尋ねた。
目の前には、彼の生まれ育った小さな街をずっと見守り続けてきた海が、日の名残りを受けて僅かに朱く染まっている。大航海時代、貿易港として栄えた街だ。旧市街の赤みのかかった煉瓦で作られた古い建物は、海に面して所狭しとひしめき合っている。
「あるわよ」と答えながら、東京の

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人もペンギンも

強風が横から吹き付け、銀色の車体を大きく揺らしました。窓の外を覗こうにも背後の窓の向こうに広がるのは暗い闇。その向こう側に目を凝らそうとしても、叩きつけるような雨の影に視界は遮られるばかりで、外の様子を窺い知る手段は絶たれております。
気詰まりな沈黙が湿度の高い車内を底から満たしている一方で、頭上に吊るされた広告の中ではモデルが「全身脱毛今なら月額9800円」などと微笑みながら真っ白な蛍光灯によっ

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