3歳息子と月曜の朝、心の整理
●今朝の出来事
また今朝も怒鳴ってしまった。
そろそろ家を出なければいけないという時間に、まだ着替え終わってない3歳の息子。
まだ自分1人で着替えはできないので、私が手伝いながら着替えるのだけど、パジャマを脱がそうとすると「じぶんで!」。
「じゃあ自分でやって!」と返すとなかなか脱ごうとしない。
その攻防を何度か繰り返した後、もう待っていられなくなり、「自分でやるならやって!やらないならママやる!どうすんの!もう待ってられないの!!」と怒鳴ってしまった。
しゅんとしながら、着替え始める息子。「まま、わらってない」と小さい声で呟きながら。
●理想と現実
つい大人のロジックを子どもにも当てはめてしまう。「こうだから、こう」なんていうのは、まだまだ難しいことだ。(しかも、それが当たり前のようで正しくないときもある)
子どものアートな発想を大事にしたい。常識に縛られない、周りが間違った方向に進もうとしてる時でもNOって言える人になってほしいと思ってる。ちょっとハードル上げすぎたけど、要するに正直に生きて欲しいと思っている。
最近息子も赤ちゃんから少しお兄さんになり、意思も力も身につけつつあって、コントロールは不可能になってきた。当たり前だし、そうであってほしいんだけど。冷静になればそうなんだけど、毎日の生活があって、私も仕事があって、汚い家や溜まってく洗濯物もなんとかしないといけない。
息子が成長してきて、私もある意味甘えている。多少怒鳴ったり爆発しても、大丈夫だろうと思って、怒りのハードルがだいぶ下がってきてしまっている。
●大人の事情
割と頻繁に爆発することで私の精神を保っているようにも思う。
ほぼ一時も自分のペースでは動けないというストレスが積み重なって、それを息子に大きな声を出して怒ることで発散している。はけ口、しわ寄せだ。(認めたくないけど実際そうだ。認めなければいけない。)
誰もが自分のペースを待っていてくれるわけではないということも、人が怒る、ということを知るのもそろそろ必要なのではないか、というのが大義名分。だけど、怒鳴られることは無くとも、集団行動の窮屈さなんて保育園で嫌というほど今学んでるんじゃないだろうか。
社会については社会で学んで、家は安全基地に徹すればいいのかもしれない。心理的安全性のある安全基地でいよう、そう軸を持っていたはずなんだけど、今の私はどうだろう。
●子どもの事情(想像)
自分のやりたいことが物理的や道徳的にできなくて、その間で今は葛藤してる時期なんだと思う。
それと、自分の気持ちもよく分からない時が多いんじゃないかな。「もっと食べたいけどお腹いっぱいだな、でも人にあげるのはヤダな」とか。大人でもそういう時あるもんな。
そんな時、すぐに自分の気持ちを理解して、意思表示する、なんてすごく高度なことなのかも。
それを大人が理詰めで責めるのはちょっと可哀想かもしれない。
おわり
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