誰も傷つけないなんて、実はできないことはわかっている


どれだけ傷つけまいと努力しようと。

どれだけ優しそうな言葉で繕おうと。


私たちは、誰かに傷を残しながら生きている。

誰かに快くない思いをさせながら生きている。


『傷をつける』とは、私たちに直接向けられた言葉の刃物が飛んでくるとか、鎌鼬が飛んできて鋭い傷を残すという形に限らない。

打たれた時はなんともないと思えても、ボディブローのようにジワジワ痛みを訴える痣として長く苦しめることも含まれる。


極論を言ってしまえば、私たち自身が存在しているだけで誰かを傷つけている可能性もあるわけだ。私たちが私たちである限り、よく思わない人間がいる。「言葉が受け付けない」「生理的に無理」「名前すら見たくない」と、苦しむ人間がいるのだ。


しかし、そんな私たちの気持ちはお構いなしに、見たくないものは私たちの目に嫌でも入ってくる。インターネットも、ソーシャルメディアも、見たくもないものを私たちの前に置いては、背けようとしている私たちの顔を掴んで、無理矢理ノイズという名の劇薬を流し込む。


見たくもない名前。アイコン。受け付けない口調。

そして、私がどれだけ見ないように努めても、それらを嫌でも見せようとしてくる『いいね』『リツイート』『引用リツイート』。『閲覧履歴にもとづくおすすめ』。『こちらもおすすめ』と無慈悲に表示される関連記事。

何度も『興味がない』を選択しているのにどうしてこうもしつこく見せようとしてくるんだということがnoteでも起こる。


目にしただけで、みぞおちのあたりに酸が逆流したようなムカムカした感覚が蘇る。

頭の奥に鈍く、重い痛みが蘇る。

「やってくれたな . . . だからソーシャルメディアは好きになれないんだ」と皮肉に満ちた感謝を述べながら、蘇った嫌な感覚を鎮めるためにジリジリと余力を燃やす。


私も人間だ。私にも合わない人のひとりやふたりは当然いる。いや、実際はそれを遙かに上回るだけの人数がいる。


しかし、私ですらこう思っているということは、他の人にとっても同じなのではないか。わかっていたはずなのに、まるで新しく気付いたかのように、私はふとそのことに意識を奪われた。


恐らく、口に出していないだけで、私のことを気に食わないと思う人はいることだろう。


私の持つひとつの顔であるこの名前を見るだけで。アイコンを見るだけで。記事が出てくるだけで。それだけでひどく気分を害する人もいることだろう。それも傷つけるに含むのであれば、もはや「誰も傷つけない」なんて不可能ということになる。


「なんだ、優しさの仮面を被っていながら私に傷を負わせているじゃないか。嫌な思いをさせているじゃないか。うそつき。」と、不意に負ってしまった傷に手を当てながら「よくもやってくれたな」と私に向けて鋭い眼光を飛ばしている人もいるかもしれない。私が誰かに対してそう思ったように。


どう言葉を繕ったとしても、存在そのものが傷つけるのであれば。嫌な感覚を植え付けるのであれば。私を想起させるなにかを目にする度に、その感覚が蘇るのであれば。


私自身がどれだけ望まなかったとしても、なるべく傷つけまいと意識したとしても、無意識に誰かを傷つけている。


誰も傷つけないなんて、実はできないことはわかっていた。

「傷つくのは私だけでいい」と言葉にすること自体が、誰かを傷つける前触れであるように。


傷がつかないということは、その分"別のなにかがつく"か"既についていたなにかが蘇る"。それは痣に衝撃が加わることかもしれないし、古傷の痛みがぶり返すことかもしれない。あるいは、『見たくなかったものを見てしまう』ことかもしれない。いずれにしても、なにかしらの快くない思いをすることになる。


あぁ、このやりきれなさたるや。

私にはどうすることもできないのか。

私のもとから去っていった人たちは、きっと私から『見たくないなにか』を見たのだろうな。


でも、それが私だ。なるべく優しくありたいとは思っているけど、私は他の人が思っているほど優しい人間ではない。一度嫌いになれば180度変わるといっていい。

私は聖者にはなれない。私は『今のあなたが仲良くしている人』にはなれない。万人が望んでいるであろう『いかなることも赦せる聖者』にはなれないのだ。私は私だ。他の誰でもない。


それに、私にも人を選ぶ権利はある。あなたにも人を選ぶ権利があるように。あなたが仲良くしたいと思う人を選んでいるように。


相容れないものはどう頑張っても相容れない。だから、合わない人とも仲良くなれるように努力しましょうだとか、そんなバカげた話をするつもりはない。噛み合わないパズルのピース同士を無理矢理合わせようとしても、ただ歪な形になるだけで、他に合っていたかもしれないピースとも合わなくなるだけだ。


ただ、お互いの人生に干渉しない。お互いの人生に顔をのぞかせない。その道を選ぶことはできないのだろうか。

それとも、「君たちのそんな気持ちなどどうでもいい。それより、これを見てくれ」と、ソーシャルメディアはお互いが最も見たくないものを白痴の如く見せにかかるだろうか。


私たちが存在することで誰かに生きる力を与えることができる。しかし、それは誰かの犠牲のもとに成り立っている。

私たちが私たちである限り、誰かを傷つけながら生きている。望まなかったとしても、誰かに不快な思いをさせながら生きている。


これも『表裏一体』であり、『正負の法則』ということか。


あぁ、人の生とはなんと無慈悲であろうか。


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