『いいねを許可しない』設定が欲しくなる瞬間
時折、「いいねなんていらないからつけないで」と思う瞬間がある。
『いいね』という言葉からわかった方もいらっしゃるかもしれないけど、今回はTwitterをはじめとするソーシャルメディアについてのお話。
最初は誰も見向きしない状態からスタートするので、最初は誰かにフォローしてもらいたい、認めてもらいたい、といった気持ちが強いと思う。
『いいね』を押してもらえると、「あぁ、読んでくれたんだなぁ」「共感してくれたのかなぁ」と嬉しくなるし、リツイートとか引用ツイートもしてもらった時には脳が軽い快感を覚える . . . ものではないだろうか。
ところが、それなりに長く続けていると、今度は気軽につぶやけないと思う瞬間が出てくる。そればかりか、『いいね』なんてつけないでと思う瞬間すらある。
いいね(noteでいうスキ)というハートマークは、良くも悪くも"軽い"ものだ。
気軽に押せるものである反面、そこにいつもものすごく特別な気持ちがあるかというと、そうとも言えない。どちらかというと、強い気持ちで押していることは少ないのではないだろうか。(本当に良いと思ってくれているなら文字で伝えるなどして別のアクションを起こすものだからだ)
それに、私もこれまでnoteでも言ってきたことではあるけど、明らかに喜ぶべき内容ではない時にはあえてハートマークを押さない選択をすることもある。その代わり、コメント(リプ)かメッセージを通して、思っていることを伝えるようにする。
喜ぶべきでない内容だったり、デリケートな内容の時に気安くいいねをつけられてしまうと、「あっそ。よかったね。」とか「ざまぁ」といった意味にも映りかねない。気軽さゆえの誤解を招く恐れがあるのだ。
人間、生きていればいろいろなことがあるので、共感してもらいたいからではなく、自分の気持ちを吐き出して整理するためにソーシャルメディアを使いたいと思う時もある。
そんな「気安くいいねをつけられたくない」と思う時は、『いいねを許可しない』設定をオンにしたくなる。
それなら新しくアカウントを作って鍵をかければいいじゃんと思うかもしれない。それもひとつの方法ではあるけど、わざわざもうひとつ別の顔を作ってまでインターネットの海に言葉の塊を流したいと思うほどではない。
要は、いまの自分が被っている仮面のままで、ただ自分の内面を吐き出して、自分の気持ちに整理をつけたいということなのかもしれない。気安く「わかる」なんて言ってもらいたくない。人間には生きていれば、程度の差はあれど、そんな時があるのだ。
ソーシャルメディアの運営側からすれば、いいねなどの機能を許可しない設定を設けることはすなわち、『情報が多数に行き渡らない=利用時間が短くなる=広告などで収益が得られなくなる』ということになるので、運営側が設けようとしない理由もわからないわけではない。運営側はあくまで事業として見ているわけだ。
それでも、いいねの数とかリツイートの数が正義とか、そんな面倒な世界から解放されたいと思うユーザーも一定数いるのは間違いない。
数字の呪縛から解放されて、ただつぶやくために使ったり、書くために使うことができる。そんな救済措置があってもいいのではないだろうか。
しかし、そうすると今度は、コメント(リプ)をもらいたいという別の承認欲求がその分暴走する可能性が出てくる。人の欲というものはなんとも扱いづらいものかと、ひとりの人間は溜息をつきながら今日も考えている。
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