自由意志はけっきょく博打のあの瞬間にしか存在しないのでは
丁か半か
決めるのは博打打ちの勘である
そこに論理的思考など存在しない
丁か半か
与えられる情報は2つのみである
丁か半か
勝率も確率論的にフィフティフィフティ
博打打ちは、完全に勘で勝負するしかない
運という自分ではどうしようもないものを味方につけるしかない。案外、博打打ちには信心深い人が多かったのではないだろうか。
あらゆる情報で私達の中身はできあがっている。文字によって、音によって、感触によって、匂いによって、不可思議なできごとによって、感染したウイルスに対する免疫によって、遺伝によって、食したものによって。
近しい人の死によって。
野に咲く花によって。
オリオン座の隣のアルデバランを見つけたときの喜びによって。
罵声によって。
拒絶によって。
受け入れられるということを知ったことによって。
詩を知ったことによって。
聞くに耐え難い音楽によって。
夕闇と満潮の浜辺の恐ろしい美しさによって。
私達の中身にはそうしたものが溢れている。すべての喜び、悲しみ、光と闇の経験が、脳には記録されている。すべてが。ひょっとしたら、海馬以外の場所にも。それを思い出すことが、とても難しいだけで。
問題は、それを出力するときだ。私達は無数の情報からなにか一つを選びとり、歩き、店に行き、モノを買う。あるいは、キャンバスに描くモチーフを決める。決めないこともある。その場合、決めるということと、決めないというを、決めねばならない。
何によって、選ばなければならいのか。論理的思考で選ぶとすれば、論理と論理を繋ぐものは何か?何が論理と論理を、論理としてつなぎ合わせているのか?
丁か半かである。
霊感、ひらめき、ごく短い感情の火花。
それらの連続で私達は決めている。
丁か半か
私は偶数が好きだが、
丁と半のどちらが偶数かわからない。
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