突如舞い降りたひとりじかん(ご褒美タイム)に渇望したのは「掃除」だった。
「今日、子供たち3時ぐらいまで連れ出すわ」
インフルウィークで看病に次ぐ看病で、身体が本調子でない私を気遣ってか、旦那さんがそう提案してくれた日曜日。
あぁ、ありがたい、とりあえず横になろう。としばらく横になり、体を休めたのち……
「めったにない、ひとりじかんどうする……?行きたかったカフェでもいく……?本でも読む……?みたかった動画をみる……?」
そう自分に問うた結果出てきたのが……
「無心で掃除がしたい………」だった、というか、気づいたら身体が勝手に掃除をはじめていた。
インフルエンザという猛獣と体内で共存、体はもちろん心も地の果てまでいった。
と同時に「わたしの人生これでいいのか」「このまま流されていて良いのか」とかいう厨二病的な問がガツンとでてきて、まだそれの答えも出ず、身体も咳のし過ぎでしんどい。
そんな中、体は自然と「そうじ」を求めて、「そうじ」に向かう。
今まで「嫌だなぁ」と思いながら、空けることをしなかった場所をどんどん空けては、拭く、捨てる。
変えたかったフィルターを変え、洗いたかった焦げた鍋を洗う。
溜まった皿は食洗機へ、排水口まで磨いては、コンロの奥の奥まで手を伸ばす。
この悶々とした答えの出ない人生の問を抱えながら、ひたすら家中拭いたり磨いたりする行為はまるで見えなくなった心の周りのサビやホコリを磨くと行為のようで、そこに今の自分とのギャップがなく癒やされる。
「大丈夫、掃除をしてれば大丈夫」という強い感覚、これはなんだろう。
これからまたはじまる慌ただしい日常の中でも
「コンロと流しの間にゴミが溜まってないから大丈夫」
「鍋が輝いてるから大丈夫」
「洗い物が溜まってないから大丈夫」
と、たくさんの大丈夫の貯金をつくってるような、そんな気持ちにもなって癒やされる。
みたかったYouTube動画より、素敵なカフェ巡りよりも、、、、
今の自分にとって必要なご褒美は「掃除」だったようだ。
すべてが終わった後、空気が変わった部屋でほうじ茶を飲んだらなんだか心が少しスッとた気がした。
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