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いつから私と私達なんだろう?

私と私達。

私のことを私はそう表現する事がある。

しばらくフォロワーさんな方は見慣れた表現だと思うが『私は私と私達』というのは、噛み砕いて言うと、私が森だとするならば、木の一本一本が私達だ。

私達木一本であり、私達木一本である。


過去の私が私達を考える文書を書いていた。
題名は
『色忘れ』である。

当時の彼女はその文書にコメントをくれた友人に『全部。きっと全部なんだよ』と返していた。


ここにも載せようと思う。それは2011の秋の私と私達。

“心ごと 擬態したのだったら?”


最近 職場の子に言われて気づいたこと。


どうやら私は その時々で違う私のようだ。


『〇〇サンと私』『◇◇◇君と私』『☆☆☆と私』

みんな違う私なのだと言う。そりゃ 多少は上下関係や、その場の雰囲気で変わるのだけれど……
私の場合は
喋り方、態度、纏う雰囲気がゴロッと入れ替わるらしい。

本人は半分意識してるようで無意識にそれをしている。

だから、人ごとに私に持つ印象が違うのか と認識した。

バラバラした人格。

どれが本当なのかもうわからない。

一人で思考にふけっている時が

一番、『素』なのかもしれない。

あとは どこかで演じているのだ。私の物語を。
カメレオンのように本能的に色をかえて。

心ごと かわる一時もある。

だから 勘違いされたりもある。

納得。

他人といると ある違和感もそれのせいか?

わからない。

なんだかわからないけれど

人間といると 違和感を感じる。

嫌だとかじゃなくて

“なぜこの人間は私の隣を歩き話しているのか?”

と、ふっと思う一瞬がある。

わからない。

話している最中に

別の自分が自分を観察しだす。

記録をつける。

ファイルに保存。

している自分に

そんなことしてるの?暇ね。

と皮肉をいう自分もいて……



私はやっぱり 私と私達で構成されている。



難しくはないけれど

よく思われないことも多々あるだろうなぁ



私は何色

何色の私

君の目にはどう写るの?


あぁ。なんだか眠い。

私は私と私達。
森を東から入るのと、西から入るのでは違うの。
どのルートで抜けるかでも違う。

そういうのを私の中で
あまり意識しないでやっていた。
みたいだ。

今もそうだけど
無理やり作りこんでるのとは違う。

演じているという言葉を使っているが
適応しているというのがいいのかもしれない。

でも適応してない私もいるので
その私が具合が悪くなるだけで
適応している私は具合は悪くならないだけ……みたいな
なんとも説明しにくい事が起きていたりする。


本当に森みたいなもんだと思う。
1本の木が枯れたり、折れたりしても、森自体は存続するでしょ?


…そういえば、これにコメントをくれた友人には『お前は森野夜だよ。乙一の小説の』って言われて本を読んだっけ。
ちょっと似てて、でも違うなって想ったの思い出したよ。

完璧に場所まで別れていたら、きっと世の中的な名前が何かしらつくんだろうと思った。

けれど、私達は私だし、私も私達だって、それだけは手放さなかったから、お互いが森という『その場に在るもの』として存在し続けているのだろう。


どうしようもなく、私なのだと、そう感じている。


私がこんなだから、誰かの変化も割とすんなり受け止めるし、納得出来るんだろう。


こんなの、ただの、生存戦略だもんね。


その時に生きやすくて、好きだと思う形になればいいよ。
魂の核までは書き換えなんてきっと出来ないから、それを覚えておけばいい。


大地が私達を繋ぎ止める。
見えない土の下で私達は手をつなぐ。
まるで一つの巨大な生き物のように。
何時だって其処に在る。

サポート設定出来てるのかしら?出来ていたとして、サポートしてもらえたら、明日も生きていけると思います。その明日に何かをつくりたいなぁ。