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連載小説:『七瀬は誰にも探せない』第三話

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第三話:『新たな搭乗者』


 カチッと鍵が開く音にアタシは片目をうっすらと開けた。七瀬との九日目が始まる。思い切り手足を伸ばそうとした時、ダッシュボードの上に置かれた足と座席に埋もれた体の間で宙ぶらりんになっていた膝がぎしっときしんだ。
「いっだっぁー!」
 内臓から出てきたような声に七瀬の笑い声が重なった。
「また足乗せて寝っちゃったんでしょう?」
「笑うなよ!!真面目に痛いんだから!」
 自分でも馬鹿だと思うが、認めたくはない。
「外に出てゆっくり曲げて見よっか」
 クスクスと笑い続ける七瀬につられてアタシも顔が緩む。こんな瞬間にアタシは優しさというものを自分の中に見つけることが出来た。七瀬と出会うまで味わったことの無い感覚。一つづつ増えてゆくのが不思議であり、自らの中から湧き出てくることが嬉しいと思えた。
 車外に出ると潮風が何となく涼しい。夜が明けてまだそんなに時間が経っていないのだろう。沖合は未だ薄暗い。アタシたちが北上しているのは日本海側だというのは、こんなアタシでも分かっていた。
「んっー!」
 思い切り背伸びをするが、膝裏がまだ伸び切ったままだ。車に寄りかかりながら、足を少しづつ曲げる。
「どう?大丈夫?」
「ん?なんちゃない。前にも言ったじゃん、アタシ得意だって」
 何度も骨折させられていたアタシには、リハビリ法というものが身についていた。手足指に肋骨、腕に足。あらゆるところが固定され続けていた日々の後には必ず、固まった筋肉を緩めるリハビリという、折れるのとはまた異なった極度の痛みが待ち受けていた。何度も乗り越えたアタシにとって、ワンナイトスタンドもどきの膝裏なんてどってことはなかった。
 こんな私を七瀬は「強い」という。でもそれはなにか違うような気がしている。”強さ”ではなく、多分”念”なのだ、あの男、父親に対する……。
「よし!アタシ、トイレ行ってくる」
 駐車場の向こうにある公衆トイレに向かって歩きだしたが、肌寒さを感じたアタシは助手席に戻り、脱ぎ捨てたままのジャンパーを羽織った。ついでに運転席にあった七瀬のパーカーを手にし、七瀬に渡す。フッドを頭の上にかぶせ、ポケットに手を突っ込むと、七瀬の手がふとアタシの頭のてっぺんに触れた。
「ここ、折れてる」
 フッドを丁寧に両手で形作ってくれ、はみ出した髪をそっと直してくれた。行ってらっしゃいとポンと背中を押される。
「あい。サンキュー」
 少し照れながら砂利を踏みしめた。
「あっ、そうだ。七瀬昨日暑かったん?」
 振り返るときょとんとした七瀬が首を傾げていた。
「夜中、窓開けてたじゃん。アタシは毛布にくるまってたけどね。ってトイレトイレ」
 足早にトイレへと駆け込んだ。

 ことを済ませて手を洗いながら鏡を覗き込み、首元を写してみる。内出血が少し出ているが、たいして気に掛けるほどのものでもない。それよりも、いつものジャンパー姿の自分なのに、どこかちゃんとしてみえるのが不思議であった。些細な所で自分が変わっていく気がして、直してもらったフッドのてっぺんを人差し指でちょこんと突き、鏡の中でくすっと笑った。

 車に戻ると、後部のドアに寄りかかり、七瀬は一枚の紙切れをじっと見つめていた。その表情が心なしか険しそうに見え、近づくアタシには気づく気配もない。
「七瀬?」
 私の声にひどく驚いた七瀬の手から紙切れがひらりと地面に落ちた。アタシがそれに手を伸ばすと、七瀬は素早く腰をかがめ握りつぶすように紙を拾い上げた。
「私も、御手洗いってくるわね」
 目を合わせずにパーカーの襟をぐっと掴みながら七瀬は足早にトイレへと向かった。

[Did you miss me? タバコ買っておけ]
 右へ流れるようにインクが滲んだそれは、明らかに七瀬の筆跡とは異なるものだった。

§

[……福岡市の緒方産業社長、緒方成人さんは未だ行方不明のままで、警察は引き続き情報提供を呼び掛けています。次は全国の天気予報です。今日は全国的に晴れるでしょう。午後から夕方にかけて九州から関西地方は曇が多くなりますが……]
「今日も良い天気になりそうだな」
 手洗いから戻ってきた七瀬は、考え事を振るいきれていない様子で、アタシに見せた笑みは少し無理しているようにさえ見えた。車内ではラジオがとめどなく流れている。いつも通り遠くに視線をやったまま運転している七瀬なのだが、どことなく渦巻くものを感じ、アタシは特に気にもならない天気のことを話題に出した。
「そうね」
 やはりどうでも良い答えが七瀬の口から溢れただけだ。いつもなら、朝飯が買えそうな場所を探しに海沿いから街に入るのだが、七瀬はただひたすら駐車場から合流した道に車を走らせているだけだ。
「言いずらいんだけどさ。。。」
 ちらりと七瀬に目を走らせるが、七瀬がこちらを向く気配はない。ダッシュボードの時計を見ると電子版の数字がちょうど十時一分に変わったところだ。流石のアタシも言うしかない。
「七瀬……腹減った」
 七瀬の口がぽかんと空いたかと思うと、今度は懸命に笑いを堪えようとしている変な音が漏れてきた。
「ご、ごめん!スズ!」
 謝りながらも腹を抱えて笑ったままだ。そんな七瀬を目にし、心底ほっとした。七瀬は信号を右折すると、笑みを浮かべたまま運転する。遠くにドイツの国旗が揺れるのが見えたと同時に、すぐにパン屋だと分かったらしい。
「パンでいいかな?」
「おん、なんでもいい」
 アタシの返事を聞いて、また笑っていた。
 アタシ達はそれぞれ好きなパンを選んで海岸に向かった。空腹に耐えきれずに車内でパンを食べ始めたアタシを嬉しそうに見ている七瀬が、やっと普段の姿に戻ったようで自分の腹時計に感謝していたりした。海を眺めながら、堤防の上に二人で腰かけた。
「うん、胡桃レーズンおいしい」
「アタシ、レーズン嫌い」
「なんで?」
「なんか、ばーちゃんみたいじゃん」
「ば、ばーちゃんって……」
 他愛もない話で埋まる時間は嫌なことを忘れさせてくれる。七瀬との時間でアタシが学んだことの一つだ。七瀬の負った傷口を開いた昨夜の出来事。それに、今朝のメッセージ。詳細は分からなくとも、嫌な事であることは聞かなくとも分かるもので、こんなアタシに出来ることは、ただただ七瀬の隣で素の自分でいるくらいだ。
「ねぇ、スズ」
「なに?」
 七瀬はそっとアタシの手を握った。
「スズにね、話しておかなきゃいけないことがあるの」
 鼻から大きく息を吸い込んで、七瀬はゆっくりと口を開いた。

瑠偉るいが……兄が戻って来たみたいなの」

§


「る……い?」
 どこかであの筆跡の主が陽介なのではないかと勘繰かんぐっていたアタシにとって、新たな名前が七瀬の口から出たことに頭がついていかなかった。存在しか知らない弟に加えて、兄という謎の人物が現れたなど、入ってきた言葉を反複することしか出来ない。七瀬は目を落としながら頷いた。
「瑠偉のことは、まだ……ごめん。まだ整理がつかないっていうか、スズにどう説明していいか私自身良く分からない」
 七瀬は左手をそっと返してから、強く右手で握りしめた。
「ただ、スズ。お願いだから絶対に瑠偉とは関わらないで欲しいの」
 アタシを見つめた七瀬の瞳には力が籠っていた。瑠偉がどんな人物で、何の目的で、どうやって予定もなく北上するアタシたちを見つけ出したのかも全く分からない。
「タバコ買ってこいって、あれ……ルイだったの?」
「読んだの……」
「七瀬が落とした時にちらっと見えた」
 七瀬は首を縦に振った。
 窓の開け閉め音は、煙草の為にルイが開けたものだったのだろうか?確かに扉の向こうから音がしたのは昨夜が初めてではあった。が、アタシが耳にしたのは窓の開け閉め音のみだった。人の出入りもなかったはずである。七瀬と出会い、怯える時間がアタシの中から消し去られたこともあって、最近は安心して目を瞑ることが出来ていた。とはいえ長年さらされていた音への反応がすぐになくなるはずはない。いつ?
「ルイは今後ろ?」
「瑠偉は寝てる。多分、夜になったらまた起きてくるかも知れない」
「いつ、いつきたの?」
「昨夜私たちがコンビニ行った時のはず」
 アタシ達が車を離れたすきに、ルイがアタシたちを見つけ出した。
寝たきりの陽介に、いきなり乗り込んできたルイ。七瀬との二人旅が、三人に、そして今四人旅になろうとしている。
「でも……七瀬と陽介の兄弟なんだよ、ね?」
 七瀬はじっと海を見ている。何を想っているのだろう。九日間一緒にいるのに、七瀬の奥は全く見えない。だが、アタシも七瀬の奥を見ようとはしていないのかもしれない。聞くのが怖い?不安?七瀬の傷も過去も正体さえも、どうだっていいと、今の七瀬が大切なんだと、アタシはただ、七瀬のことを想っていると自分を正当化させているだけで、本当は自分の知る今の七瀬を失いたくないだけなのかも知れない。
「瑠偉は、私と陽介をずっと守ってくれた唯一の存在なの。でも、この数年で、少しづつその形が変わってきて。私、今の瑠偉が少し怖いの」
 それは七瀬の本心だったと思う。悲し気な笑みでも、困った顔でもない、隠す事の無い素直な気持ちが初めて真っすぐにアタシに届けられた気がした。
 一人っ子の私には兄弟の形なんて理解できない。そもそも在るべき形が存在するのかどうかも分からない。ただ、血の繋がった関係であっても個別の人間であり、恐怖が生まれることも不思議ではないことは知っている。現にアタシが親に恐怖や憎しみを抱き続けているのだから……。
「分かったよ。瑠偉とは関わらない。ただの同乗者でいる」
「ありがとうスズ。ごめんね」
 悲しそうに笑う七瀬はまた海に目をやり
「早く……早く探さなきゃ」
 ぽつりと呟いた。
 アタシは、七瀬をどこまで知ることができ、いつまで七瀬の隣にいられるのかと、この時初めて不安にも似た感情を抱いていた。


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