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連載小説:『七瀬は誰にも探せない』第二話

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第二話:『傷口が開く時』


 七瀬は綺麗だ。それは女らしさとは違う中性的な美で、まるで名画を目にした時に鳥肌が立つ感覚と似ていた。肩下まで伸びた薄栗色の髪をかき上げる仕草には、女のアタシでさえ一瞬息が止まる。透き通るような肌に、細い指先。アタシの知る限りの七瀬の仕草、姿全てが美しかった。優しさがにじみ出す、囁くような笑い方。スラリと伸びた手足は浜辺に降り立つたびに風に舞い、白波と並行して引かれた真っすぐな鎖骨。七瀬の隣りに立つと、自分の存在が夜明けの海辺に霧散むさんするように思えた。ただ、見上げなければ七瀬の表情を伺えないほどの身長差。これが唯一”アタシはまだここに居る”と、砂に埋もれる自分の足に目をやり、七瀬の美しさに飲み込まれずにいられる理由でもあった。

「今日はこの辺りで休みましょう」
 車が停められたのは海岸沿いに走る道脇に設けられた小さな駐車場だった。
「休めそうなホテルがないけど、今日は大丈夫?」
 申し訳なさそうに聞く七瀬に、アタシは首を縦に二回、小刻みに振った。
休めそうな宿があると、七瀬はアタシの為に部屋を取ってくれる。アタシの為だけに、だ。陽介が車内にいるまま放ってはおけないのだろう。七瀬は借りた部屋でシャワーを浴び、アタシが眠りに就く頃に車に戻って夜を過ごす。こうしてたまに宿がない時には車中泊だったが、アタシは特になんの不自由も感じてはいなかった。育った環境もあってか、女の部分がアタシには欠けている。風呂だって今まで毎日入れていた訳ではなかったし、数日くらいは気にもならなかった。ただ、七瀬と過ごすようになって少しづつ、ブレーキを掛け続けてきた自分が溶け出しているような気がしていた。特に女性っぽい服装を纏っているわけでもない七瀬は、長袖のシャツにスエットやリネンのズボン姿がお決まりだ。それでも、モデルのように映える。ある時、本音が知らぬ間に口をついて出てきた時があった。
「綺麗だね、七瀬」
 思わず七瀬の髪に手を伸ばし呟いたアタシに困惑したような顔を見せた七瀬は、美しさの中に何かを背負っているように見えた。それが何なのかはアタシには分からない。けれど一瞬見せた七瀬の両肩の強張りには、自分の身体に起こっていたものに類似しているものがあったと思う。掴み切れない気持ちではあったが、その時から七瀬の美しさを褒めることは避けようと決めた。

 運転席から立ち上がった七瀬が髪を耳に掛けるのを見ながら、アタシはこの短い髪を伸ばそうかと、ふとそんなことを考えていた。目で追っていた髪の毛先が七瀬の手首にかかり、同時にシャツの袖が肘に向かって滑り落ちる。この駐車場に入る前に立ち寄ったコンビニで七瀬の前腕につけられた赤みは未だ色濃いままだった。アタシは無意識に自らの首元に手を回し、襟を類い寄せている自分にも気づいていた。
「それ、大丈夫?」
 アタシの問いかけに、七瀬は手首を隠すように袖口を引っ張りながら「うん」と言って微笑んだ。


§


「おっ、べっぴん!」
 小一時間前の事だった。泥酔した中年の男たちが、店を出たアタシ達とすれ違いざまにおもむろに七瀬の腕を鷲掴みにした。
「俺たちとよぉ、一緒に酒飲まねーか?」
 にやけ溢れる顔で執拗しつように絡んできた大柄な男たちに、七瀬の体は凍り付いていた。握られた七瀬の右腕は死んだ魚のように、男の思うままに左右に揺さぶられている。
「女にしちゃぁ、しっかりした肩してんなぁ。俺嫌いじゃねーぞ、おい」
 七瀬の肩に置かれた分厚い手が汚い、忌まわしい。吐き気のするような嫌悪感に憎悪感がアタシを一瞬にして満たしていった。
「きたねぇー手で触んなよ!」
 アタシは大男の腕を力いっぱい払い除け、七瀬と男たちの間に入り込んだ。
「あー?なんだウザってぇチビ。お前はいらね」
 ドンと胸部を突かれ、ほんの少しグラついたが、こんな力は今まで受けてきたものに比べればなんてことはなかった。七瀬の腕に伸ばされた手を何度も叩き払ううちに、男たちのヘラ顔は苛立ちに、そして鋭い睨みとなっていくのが分かった。それが限界に達する。
ー あ、くる。。。
 直感的に歯を食いしばったその直後、忌々いまいましいあの分厚い手に首元を掴まれ、アタシの体はいとも簡単に宙に浮いた。
 叩かれるのを待っていたアタシにとっては不意打ちのようなものだった。必死に男の手を解こうとするが、藻搔もがくばかりで奴の太い指さえも掴みきれない。その毛深い腕にある大きな浅黒いあざがだんだんと大口を開けた熊のように見えてくる。男の吐き出した見下し笑いと共にアタシは地面に落ちた。
 ぐっと食いしばった瞬間に止めた呼吸。そこに首を締めあげられ、息が出来ないでいたアタシは、むせながら固いアスファルトに出来たヒビの隙間に酸素を求めるかのように這いつくばる。定まらない視点はあちこちを泳ぎまわる。耳はオブラートに包まれたように遠くなり、男の声がこもり響く。
「……おれたちと……こ……なぁ?」
「いいじゃ……いいこと……」
ー 七瀬。
 ゆらゆらと揺れる目線を音のする方に向けると、男たちに囲まれた七瀬の背中が見えた。頭がうなだれ動かない七瀬を、男たちが舐めるように覗き込んでいる。
ー 逃げろよ七瀬。
 息を吸い込もうとする度に気管が収縮して、酸素が肺まで届かない。スース―と鳴る自分の呼吸音、その音だけがアタシにはっきりと聞こえていた。
「っ……なんだ……おい!」
 ざわつく音にもう一度視線を上げると、じっと立ち尽くしたままの七瀬の左手にあった買い物袋は地面に落ち、そのかわりに大男の分厚い手がひるがえり握られていた。
「折れる……わかっ……!」
「はな……ふざけん……!」
「……」
男たちの声が響いた後、低い男の声で言葉が放たれると、男たちは七瀬を睨み、道に唾を吐き捨てながら店の中へと消えて行った。

 男たちが去っても、七瀬はずっと下を向いたまま立ちすくんでいた。アタシはやっとの思いで体を起こし、拳で胸を何度も叩くとやっと酸素が流れ込んできた。アタシの荒い呼吸が辺りに響いても七瀬は微動だにしない。恐怖で放心状態になっているのかもしれない七瀬は、やはりアタシと同じものを背負っているのだと、震えていたはずの七瀬の肩の静けさがアタシに確信させた。
「七瀬?」
 ゆっくりと立ち上がり七瀬の背中にそっと触れてみる。
「スズ?」
 はっと顔をあげた七瀬の瞳に一瞬恐怖が見えたものの、アタシの顔を見るなり力が抜けたようだった。が、すぐに首を振りながら辺りを見回し、男たちの姿を探そうとしているのが分かった。
「あいつらは店の中に入って行ったよ」
 アタシの言葉に驚いた様子だったが、店内をうろつく男たちの姿が見えたのか、ふーっとゆっくり息を吐いた。
「スズ、ごめんね。ありがとう」
「ううん、ああいうのには慣れてるから。早く車に戻ろ!」
 七瀬の手から落ちた買い物袋をさっと拾い上げ車へと歩きだす。
 七瀬は多分、なにも覚えていない。いつ放心状態に陥ったのかは分からないが、アタシに起こったことを覚えていたのなら、七瀬はすかさずアタシを心配するはずだ。優しくアタシの首に触れ、眉を寄せる。それをしないのは、七瀬が事の前にプツリと途切れた証なのだ。守ってくれるはずの父親に殴られ続けたこの体。恐怖を味わったアタシだから分かる。固まって動けない。思考回路が止まる、というより切れるのだ。あの時、七瀬の全てが止まっていたはずだ。七瀬が背負っているもの、そんなもの考えたところで無意味だ。なんであろうとアタシにとって大事なのは目の前にいる今の七瀬なのだから。そっと、自分の首元に触れ一息つく。唾を飲み込むとごろりと違和感があるように感じるが、多分今だけだろう。アタシは大丈夫だと、心の中でつぶやいた。
「新発売のこれ!このプリン食いたかっ……」
 思い切り陽気な声で振り返ったアタシの目の中に、一歩も動かずじっと自らの左手を見つめる七瀬が映った。ただ茫然と左手のひらを眺める七瀬。ゆっくりと視線を上げた七瀬は、今にも泣きだしそうな顔をしてアタシは言葉の続きを出し切れなかった。切なさの中に、困惑に、怯え。こんな七瀬の顔は初めてだった。
「スズ……私……」
「大丈夫!アタシがガツンと追っ払ったから!!」
 初めてみる七瀬の表情に頭より心が先に動いていた。アタシはなにもしていない。なぜあいつらが七瀬をあきらめたのかも分からない。ただ、今の七瀬にはこの説明で良いと心がそう判断したのだと思う。七瀬が掴んでいた分厚い手に、返された奴の手首。追っ払ったのはアタシじゃない。だが、これでいい。
「本当にスズ……が?」
 アタシはありったけの笑顔で大きく頷いた。


§


「じゃあ、お休み。本当に、ありがとうスズ」
 車での寝泊まりは小柄なアタシにとってなんの苦でもない。助手席を少し倒せば無理なく寝ることができ、七瀬が用意してくれた枕も毛布もある。アタシは座席の後ろから枕を取り出し、思い切り叩き「うん」とだけ答えた。
車の鍵をダッシュボードの中に入れ、七瀬はそっとカーテンに手を掛けた。と、思い立ったかのように手を止め、振り返り、何かを言おうと薄い唇を突き出した。
「分かってるよ。物音がしても開けないし」
 七瀬の口から出てくる言葉を既にアタシは知っていた。柔らかく念を押すように、この仕切りの存在を伝えてくる。開けるなと。アタシのぶっきらぼうな言葉を聞き七瀬は口角を上げ、軽く頷いた。
「まぁ七瀬のいびきはひどいけど」
 茶化し気味に舌を出して笑うと、七瀬の顔が少し赤らんだ気がした。七瀬はアタシの肩に手を置くと、もう一度お休みと言いカーテンの中へと入って行った。扉は、必ずカーテンの裏で開けられ、そしてピタリと閉まる。それを追って、内側から鍵がかかる音で就寝の儀式が終わるのだ。
「鍵かけられてんのに、こっちから開けられるわけないじゃんよ」
 陽介を見られたくないのか、それとも七瀬の安心網なのか、想像もつかないことではあったが、素性が分からないアタシを何も聞かずに匿う以上の驚きなんてありやしないはずだ。ただ、この車の後部は、七瀬の心の住処なのではないかとアタシは思っている。眠ったままの陽介の隣で、七瀬はじっと彼に耳を傾けているに違いない。誰にも入って欲しくはない隙間は、誰だって持っているはず。特にあんなことがあった夜だから。
 毛布をおもむろに掛け、両足をダッシュボードの上に置く。天井を見上げながら顔を赤らめた七瀬を思い返して、変な笑い声が出てしまった。実際、七瀬の鼾が聞こえてきたことはない。というより、向こう側から音が聞こえてきたことがこの八日間、一度たりとなかった。七瀬との約束は守る。が、アタシの頭の中で扉の裏側の想像をすることはなんら問題ないはずで、最近は寝付く前に色々考えていた。
 スライド式の後部ドアが開けられたことはなくとも、その大きさから小さなベッドが置けるくらいの広さがあることは容易に分かる。陽介はそこでずっと眠ったままで横たわっているのかもしれない。もし今日、七瀬に何か起こっていたら、アタシは陽介を起こしに行くべきなのだろうか?果たしてアタシに彼を起こすことが出来るのだろうか?七瀬の心の傷を陽介は知っているのかもしれない?その寝顔は七瀬に似ているのだろうか?寝顔しか見せない弟を、七瀬は今夜どんな気持ちで見つめているのだろうか……。そこで胸が締め付けられるような気分になり、アタシは力いっぱい目を瞑り、自らを眠りに誘導していった。

 この夜、扉の向こうに初めて人の気配を感じた。
 小さく鳴った音は、普通なら気にも留めないくらいのものだったが、時間を問わず歩み寄ってくる暴力の足音を聞き続けていたアタシは自動的に意識回路が働いてしまう。眠りの中でも耳を澄ませる、アタシの皮肉な得意技とでも言うべきかもしれない。後部座席の窓が開く音。七瀬が夜風を入れているのだろう。しばらくして窓が閉まる音がして、いつもの静寂の中にアタシの意識もまた落ちて行った。



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