長編小説「ひだまり~追憶の章~」Vol.4-②
~晩夏のスキーヤー@五山の送り火を過ぎた京都~
Vol.4-②
御所の蛤御門に近い月極駐車場から並んで歩き、池田君ちを訪れた。学生時代にひょっとしたら、近辺で頻繁にすれ違っていたのかもしれない。
池田君の部屋は雑然としている。狭くもないのに物が有り過ぎるのだ。20 年余りの間に所持品が積り積もった事を、壁の剥がれかけた懐かしアイドルのポスターが物語っている。昔ながらの家屋に妙に馴染んだ最新オーディオ達をもの珍し気に眺め、私はどこに落ち着けば良いのか迷った。
私は畳の部屋に馴れていない。こんなに所帯じみた生活感の溢れる雑然とした部屋を訪れたのも、初めて。極力モノを所持しない主義の私は、腰を落ち着ける場所が見当たらない。
『St.エルモス・ファイヤー』のビデオが始まった。
池田君の入れてくれた紅茶の量が減り、灰皿の吸い殻がただ増え続けるだけ。彼は自分のリラックス出来るスペースに彼らしく納まり、私はベッドの脇にもたれて膝を抱え、黙って画面の中の世界観に入り込んで行く。居心地悪さも次第に忘れて行った。
なんてだらしない主人公達。あまりにもそこら辺で見かけそうな個性ばかりだ。なのに、胸につかえる。
私の日常より映画の中の日常の方が、はるかにリアルだ。さして変わらない日常を送っているのに、私の日常はただ何となく通り過ぎ、映画の中の日常は胸につかえて何かを残して行く。
なぜ、男性の傍に居る事トキメキを得ず、画面の中の青春に魅入られてしまうのだろう。二人きりで居るのを善しとする相手なのに。ただ、そこに居る事を意識して違和感を感じるだけ。
安心感でもない。もしもTVの画面がそこに無ければ、この黙した空間に虚しささえ感じてしまうだろう。独り勝手に。
男性の傍に居る事以上に退屈しのぎ出来るモノが在れば、独りで居ても寂しさは癒せるのかもしれない。
冬なら、私にはスキーが在るのに。
だからといって、二人で居る事の【最後の妥協策】だけは、今は持ち込みたくはない。とても哀しい事だけど。
今の私にとっては唯一の確かな思い。
夏場の私って、ホント、ナサケナイ。
画面はクライマックス・シーンを過ぎていた。
ろくでなしのサックス吹きが、自分の夢を追いかけるために旅立つシーン。キャリア女子が、虚勢で固めた自我を支え切れなくなって自閉してしまうシーン。一方通行の恋をしている男が、とことんまでぶつけて吹っ切れたシーン。友人の彼女を密かに片思いしているその男を、ホモ呼ばわりして口の悪かった街娼が、彼が想いを遂げたと知ると、励ましと労わりの言葉で包み込んだシーン。
それまで、情けなくってただ親しみしか沸いて来なかった彼等が、やたらにイカシタ仲間として、私の胸の中に染み込んで行く。
ディヴィッド・フォスターのサントラが、私の胸の奥で優しく澄み渡り、心のガラクタだけが沈殿して行った。
傍に居た池田君は、私と同じ感慨を抱いたのか、ENDマークと共に眼を合わせると、穏やかに微笑んだ。
初めて、二人で居る心地良さを共有出来た、気がした。静かに時間は過ぎて行く。
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