40歳、人生初のひとり旅

大きく出ましたが、日帰りなんですけどね。

母を差し置いて父親の隣の助手席を陣取り、道中ひたすら好きな曲をふたりの耳に浴びせていた少女時代。
片道2時間半かけて通学するならひとり暮らししたら?との提案を、
「料理ができないから無理」と速攻で却下した大学時代。
振り返ると、私は「箱入り娘」ならぬ「箱に入りたがり娘」だった。

そして今現在はどうか。
運転する夫の隣にいながら助手の務めをなかなかの度胸で放棄し、車窓越しに流れていく景色を眺め、いい女風を吹かせている。
立派な「箱から抜け出せないおばさん」に成長した。

…いや、いかんっしょ。
このままだと、ひとりで一歩踏み出すのにも一万歩くらいの勇気が必要なおばさんになっちゃう。

誰かにすぐに頼れない環境で、自分の目的を果たせるか試したい。
ひとり旅は、芽生えた脱皮願望を叶えてくれそうな気がした。

自信をもって宣言する。
私は地図が読めない。
「料理ができない」は必要に迫られたこともあり克服した(のかなぁ)が、
地図は読める気がしない。マップを表示させたスマホを片手に
「いまはここだから、こうひっくり返して…あ、右の通りに出るといいみたい!」
と言える日が来る気がしない。

というわけで早速夫を頼り、グーグルアースを教材に今回の旅の道程を講義してもらった。駐車場から離れた途端に、家の車をどこに停めたかさえ記憶から消してしまう私の習性を心配してか、夫はプリントアウトした拡大地図も用意してくれていた。
ありがたく受け取り、お守りにしようとバッグに入れた。

迎えた当日。
目指すは静岡県の三島市。予定時刻より早めに自宅からの最寄り駅に着いたので、乗車する電車を一本早めた。
えっと、この電車だとどこで乗り換えるのかな…
アプリの検索結果に「新幹線」の文字とマークが表示された。早とちりが作動してパニクった。選択肢がそれだけのはずはなく、無事に在来線を乗り継いで行くことができた。

この旅を実行するにあたり自分とやんわり約束したことは、
①スマホを極力触らず、車窓からの景色を楽しむ 
②考え事から脳と心を切り離す (なので本も持って行かず)
③無理にポジティブにならなくていい、疲れたら素直にそう思う
④でも、地元の方のご親切には笑顔でご挨拶を
⑤「よい風景」を探すことに神経を注がず、気の向くままに、視野を広げて
である。

電車は知った街を大きな河原に変え、空に向かって海と並走するようになり、木々が森を作りその森が山を作っている場所へ連れて行ってくれた。今日見た新緑のきらめきやホーム向かいの駐車場に停まっている車の色、この先もずっと覚えていたいな、と思った。

一本早く乗った電車は乗り換えや待ち合わせが所々であり、結果的に到着時刻は当初乗る予定でいたものと全く同じになった。

夫が丁寧に目印を教えてくれたお陰で、はじめの目的地であるレストランに無事辿り着いた。目の前の清流と所在を分け合うような佇まいは、美しさを演出する必要性を問うているようにも感じた。
近くの畑で収穫されたお野菜や地元の海から上がったお魚を、心の中で感嘆の声をあげながらいただく。視線を下げると、穏やかで透明な水面。ゆったりとした時間の中で食べることに集中するのは、とても久しぶりだった。

お店の方がナチュラルに接してくださるので、居心地の良さと安心感が何倍にもなった。蛍が集まることで有名な地域なのだが、「昨日は過去最高の光の数だったんですよ」と教えてくださった。
店内に飾られた赤紫色をした毬のような花を眺めていたら、今日農家の方が畑から持ってきてくれたばかりのにんにくの花です、とシェフ(おそらく)が微笑みながら声をかけてくださった。

豊かな時間を過ごさせていただき、旅の4割ほどは達成したような気持ちになれた。充足感とともにお店を出て、次なる目的地へと足を向けた。雑誌でその存在を知ってから何年も恋焦がれていた、源兵衛川へ。

富士山の湧き水が流れるこの川には飛び石があり、緑の屋根に守られながら歩くことができる。夏も平均気温が15℃ほどとのことで、涼を求めて子どもたちがはしゃぐ姿が目に浮かぶ。

「川の中を歩いてみてください。サンダルを持っていらしてください」との前情報に心が躍り、ビーチサンダルを新調した。けれど、人ひとりすれ違うのがやっとの飛び石が続き、靴を履き替えるポイントが見つからない。歩を進めるうち、終点が見えてしまった。

これで帰るわけにいかない。引き返そう。
すると、終点近くの腰かけ場で、足を拭いている女性が目に入った。
勇気をいただいた。

憧れの源兵衛川の水は予想以上に冷たかった。振られたみたいな言い方だが、水温を確かめることでやっとこの川と出会えた気がした。
やさしいせせらぎが、引き返す前よりも自然と耳に入ってくる。
あまり聞いたことのない鳥の声もする。

先程の腰かけ場まで着いた。名残惜しいが川から上がろう。
素直に座って足を拭けばいいのに、潔癖症が発動したため腰かけ場の前に置かれた石に立ったまま片足ずつ拭き、靴に履き替えた。
左足の裏をつった。

源兵衛川を出てからは「楽寿園」という公園を抜けて三島駅を目指そう、と夫にアドバイスをもらっていた。グーグルマップで確認した通りの場所に来られた。ここから楽寿園に入れる!
「こちらは出口専用です」の看板と、絶対に通さないぞという意志を持った柵があった。

これは想定外だ。落ち着こう、入口はこちらと促す地図が貼ってあるじゃないか。とりあえず右に曲がって、かばん屋さんを見つければ良さそうだ。

こんなざっくりな解釈では、楽寿園は入ることを許してくれなかった。
だが結果的に、駅から遠くなりそうだからとコースに入れなかった「白滝公園」に何故かめぐり会え、想定外の場所を歩いたからこそ「あ、今私は初めましての地に立っているんだ」と実感できた。

ありがとう三島、と心の中で手を振り、熱海へ向かう電車に乗った。

熱海といえばサンビーチ。季節を問わず花火大会が催され、何度か見に行っているが当然ながら道は覚えていない。夫は「商店街を抜けると狭い階段が点在する下り坂があるから、そこを道なりに進んでいって」と、箱に入りたがりおばさんにインプットしてくれた。

道なりっていうのは手強い。そう言いながら分岐が現れるんだもん。んで案の定、曲がる方向を間違えたっぽいんだもん。
戻ればいいのに、「いやでも海に繋がってるはずでしょ」とゴリ押ししてしまうのは何の性か。その結果、奇跡のショートカットを達成していた。

夕方には雲が優勢になっており、空も海も白に染まっていた。それでも海を見ると心が洗われるのは何故だろう。これからまた頑張れるかも、と思えたのは大きな景色に包まれたからだろうか、それとも旅が終点に近づいたからだろうか。

ご当地のお土産として有名なプリンを買い、夜ごはんへ。
前々から行きたいと思っていた食堂だ。地魚の定食と、静岡産のお茶というぐり茶を注文した。最後の目的地に辿り着けた安堵が全身に回り、「素敵なお客様がいらっしゃいました~!!」と元気よく迎えてくださった店員さんに、「あ…ありがとうございます」と下斜め45度で発するのが精一杯だったのが申し訳ない。

平日の夜にも関わらず、続々とお客さんが来店しあっという間に満席状態になった。有線なのか、90年代J-POPが次々流れてくる。
賑やかで明るい店内で、甘い煮汁に浸かったお魚をほぐして口にしているうち、あろうことか涙が出そうになってしまった。

気を許したら本泣きしそうに、涙腺が刺激されている。振り返るとサンビーチで物思いにふけったときにも、少しこみ上げるものがあった。あれが伏線だったか。何故こんな気持ちになったのか今でもわからないが、旅の行程が走馬灯のように蘇っていた。

旅の前日、サザンオールスターズの「アロエ」を聴いた。友人を励ますために作った曲ということを知り、この旅はもちろん、これからの生き方までも背中を押されたような思いがした。

今年に入ってから、自分の核と信じていたものが実はそうではないかもしれないと気づき始めた。理由はどこにあるか、本当は感づいていた。だから自分の気持ちに気づかないふりをしていた。していたかった。けれどそんな感情を抱えるのも重たくなり、自分をほったらかしにしたくなってひとり旅を決行した。

源兵衛川を2周した。
そういえば、気に入った曲は何度もおかわりして聴く。
三島でも熱海でも道に迷ったのに、引き返そうとしなかった。
根拠のない自信と、冒険をおそれる気持ち。
子どもの頃から変わらない。

本気で夢を描いたことがない、ということに気づいた。
できる、と思ったことしか自分に課さずにここまで来た。
この数年で見つけた自分の核は光明のように思え、夢にまで繋がると思っていた。
そう思いたかった。
けれどそれは若いころに生まれたプライドの名残だよ。あの頃とは考え方も環境も変わっているのに、今の自分を当時のプライドに添わせるのは窮屈なだけだよ。

もう、過去の自分を認めてあげたくなった。
じゃないと今の私まで可哀想だ。

夢を持つことを、心に強いる必要はない。

旅のあいだは、AとBのどちらを選んだら気持ちよく過ごせるか、に自然と神経が集中していた。
日々もそうでありたい。
小さなハードルを越えていくだけで、生きる意味はあるはずだ。自分軸から見出した「核」ならば、いつかの何かにきっと結びつくだろう。
ひとり旅は自分の特性やキャパを客観視し、これからの身の振り方を再計測するのに有効だった。

誰かに、ではなく、自分に自分を誇れればいい。
そんな歌、90年代J-POPにあったなぁ。

それにしても、人生初の大冒険にはやっぱり緊張していたようで。
「きちんと家まで帰る」が今回の目標でもあったので、我が家の目の前でバスを降りたとき、いつも触れている空気がとても美味しかった。

脳内に「アロエ」が流れた。
悲しい気持ちは、遠くの夜空に吸い込まれていった。














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