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こうして私はバツイチに…⑤「ありがとうよりごめんなさい」

はじめに

どうもふくすけ(@namiuchigiwade)です。

今回は「こうして私はバツイチに…」シリーズのパート5になる。

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この話しは妻の『不倫』をきっかけに離婚した私の実体験である。

転職、結婚、転勤と続き、

ようやく落ち着きを見せるのか?

と思った矢先の出来事が…。

では続きをどうぞ。

突然の知らせ

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「なぁ、あのさぁ、」

…。

2009年5月、

この日は朝から春の陽気が気持ち良く清々しい気持ちで空港へ向かっていた。

この時期なので旅行客よりビジネスマンのほうが多い。

けどこれから飛行機に乗り行く人達を見ながら、

「あぁ、

おれも飛行機乗ってどっか行きたいなぁ」

なんて思いながら仕事をしていた。

その前の休日は1人家の近所の公園で、

アイスコーヒーを飲みながら空を眺めていた。

時々視界を横切る飛行機を見て、

「まさか空港で働くことになるとは。

こんな未来誰が想像したやろう。

1年前のおれが見てもびっくりするわ」

と時の流れと展開の早さを改めて感じていた。

しかし、

日々仕事に追われつつも、

休日はこうしてのんびり好きなアイスコーヒーを飲んで公園でボーッと過ごす。

多少波はあれど、

こんな当たり前な日常を送れることがいかに幸せなことなのか、

この日弟からの電話で気付かされる。

…。

「なぁ、あのさぁ、

落ち着いて聞いて欲しいんやけど、

今朝、親父亡くなったわ」

…。

…はぁ?

…親父が死んだ…?

「なんでやねん」

弟に電話越しに詰め寄る。

「いや、

原因はまだわからん。

今朝仕事やのに親父起きへんなぁ。

って思っておかんが様子見に行ったらもう息してなかったらしい。

さっきまで警察来てバタバタしてて、

今司法解剖で連れて行かれたわ」

弟も急な出来事と警察の対応に追われやや疲れた様子だったが、

私は私で頭が真っ白で弟の言っていることがよく理解できなかった。

親父の急死。

これはにわかに受け入れがたい現実だった。

実感が全くなかった。

「とりあえず今から帰るわ。

あ、おかんは元気?」

親父の死により、

私の母親が心配になった。

とても仲が良い両親だった。

ケンカもたまにはするが、

子供ながらに理想の夫婦だと思っていた。

私もシホ(仮名)とこんな夫婦になりたいー。

心からそう思っていた。

「おかんはソファに座ってる。

落ち着いてはいるけど、

兄貴にどう説明したら良いかわからん。

って困ってたからおれが電話した。

じゃあ待ってるから」

弟はそう言って電話を切った。

…。

とりあえず何から始めたらいいのだろう。

上司に早退を申し出て、

そこから家に帰ってスーツに着替えて、

新幹線に乗って…。

あ、途中でシホ(仮名)にも電話して。

当たり前の段取りを心の中で何度も何度も復唱する。

こうでもしないと職場だろうが、

電車の中だろうが関係なく、

気が狂いそうなほどに泣き叫んでしまいそうだったからだ。

最後の会話、最後のメール

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私の家は父と母、弟の4人家族だ。

父は普通のサラリーマン、

母は専業主婦で小さい頃は転勤ばかりだったが、

私が小学校2年生になってから大阪にずっと住んでいる。

父は大の巨人、

特に長嶋茂雄のファンで夜はいつもプロ野球の巨人戦を観て育った。

最後の会話は1ヶ月ぐらい前。

「お父さんなぁ、また痩せたぞ」

とダイエット自慢をしていた。

最後のメールは2週間ぐらい前。

「巨人今日は横浜に負けたわ。

悔しいけど明日はリベンジや」

どれも大したことない実にくだらない会話だった。

昨夜は母と2人で家で飲みながら、

「ふくすけはいつ子供できるかな。

娘生まれたらおれタレントの優香が好きやから、

『優香』にしてくれへんかなぁ」

なんてことを笑いながら話していたらしい。

その父が一晩寝たらその後起きることなく死んでしまった。

55歳だった。

死因は後でわかったことなのだが、

急性心不全だった。

…。

悔しかった…。

もっと親孝行したかった…。

孫を抱かせてあげたかった…。

ちゃんと「ありがとう」と言いたかった。

今まで大学卒業するまで育ててもらって、

卒業して仕事を始めて6年。

転職はしてしまったが、

結婚してようやくこれから少しずつ恩返しをしたいと思っていた矢先のことだった。

去年(2008年)の誕生日。

28歳になった私に父がくれたメールを読み返す。

「28歳の誕生日おめでとう。

結婚も決まりこれからもいろいろとあると思うけど、

がんばれよ」

…。

涙が止まらなかった。

なんでもっと話ししなかったのだろう。

なんでもっと話し聞かなかったのだろう。

なんでもっと親孝行できなかったんだろう。

悔やんでも悔やんでも悔やみきれなかった。

私はおばあちゃん子だった。

おばあちゃんが大好きだった。

けど病気や認知症になった時、

何をしたら良いのかわからなくて、

何もできずにおばあちゃんは死んでしまった。

その時とても悔やんだ。

おじいちゃん、おばあちゃんの次に亡くなるのは、

順番通りいけば父と母だ。

親が病気や認知症になった時、

後悔したくなかった。

だから私は介護の仕事を始めた。

けど、また何もできなかった。

そこがまた悔しかった。

「ありがとう」より、

「ごめんなさい」の気持ちの方が多かった。

「ごめんな。ごめんな親父」

ひたすら心の中で叫んでいた。

シホ(仮名)と合流。実家へ

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新大阪駅でシホ(仮名)と合流したら私は、

急いで実家へ戻る。

実家の扉を開けると、

母が私に泣きながら抱きついた。

「ふくすけぇ。

お父さん亡くなったよぉ」

今まで現実感がなく、

どこかフワフワした気持ちで実家に戻ったが、

母を見て一気に現実に引き戻された。

弟はショックで部屋にこもっていた。

リビングには父の叔父と叔母がいた。

葬儀の段取りやこれからのことを母と弟だけでは心配だったそうで、

来てくれていた。

「ふくすけくん久しぶり。

大きくなったな。

お父さん亡くなったけど、

これからはおまえがふくすけ家を守らなあかんねんぞ。

わかったな」

叔父は冷静に私を激励してくれた。

気持ちはとてもありがたかったが、

まだ父の死を受け入れきれずにいた私は

「ハイ…。ハイ…」

と、空返事をしていた。

今となっては申し訳ないことをしたと思っている。

葬儀はこの日から2日後に通夜、

3日後に告別式となった。

その間シホ(仮名)はずっと家にいてくれたが、

お義母さんに毎日電話をしていた。

「私ここで何したらいい?

あちらは何もしなくていいって言ってたから何もせんでいい?」

そんなことをボソボソと小声で言っていた。

違和感があったが、

今は父の死で頭がいっぱいだったので、

それどころではなかった。

結局そのまま告別式まで私、母、弟、シホ(仮名)の4人で過ごし、

告別式が終わった翌日、

私だけ千葉へ戻った。

その頃から母と弟には、

「ふくすけ。

あの子大丈夫?

お義母さんに聞かな何もできへんの?」

と言っていた。

しかし、

「なんでやねん。

親父死んだから暗い雰囲気の中でもシホ(仮名)ずっとそばにいてくれてたやん。

今はいろいろ迷ってるからお義母さんに聞いてんねん。

わかってあげようや」

とシホ(仮名)を必死にフォローしていた。

ー次回ー

妻「なぁ。

私そろそろ…」

この時2009年5月

離婚まであと7年と1ヶ月…。

続く

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