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怖いのは価値観の偏り

 私たちは、自分の考えや好みを超えて無条件で取り込んでしまっている価値観があることを、普段考えない。
 例えば「一日3食の食事」。これは度々「本当は一食でも良い」とか「2食で十分とか」「5食に分けるのが健康」とか言われていて、それを聞いていると「では自分は多くの選択肢からなぜ一日3食を選んでいるのか」と立ち止まる。そこに理由はない。親がそうだったから。周りの人がそう言うから。あるとすればそんな理由しかないはずで、それは自分の意志とは関係ない。この思考停止の内に取り込まれた価値観の偏りが、実は多く存在している。そして怖いのはその偏った価値観は人の命さえ奪ってしまう恐れがある、ということだ。

 あちこちで「英語の先生」として存在していると「先生、僕の友達2年生で英検3級取ってます」とか謎の報告をしてくる子が時々いる。私の返事は「へぇ。」その子が拍子抜けする様な反応で申し訳ないけれど。その言葉から見えてくるのは、「すごいね」って言われたい気持ち。
 でもそれはその子自身のことじゃない。しかも「2年生で英検3級ってすごい」っていう偏った価値観に塗れている。私は英語の先生だからわかる。英語をある角度から見るのがとても得意な子がいて、そんな子は小さな頃からテストで良い成績を残したりする。でもそれはその子の好みで特徴。私はそれを「へぇ、好きっていいね。」ってレゴ好きや電車好きの子と同じ感覚で受け取る。
 ただ一個人の趣味の世界なのに、勉強やテスト、英語というワードになると突然数字だけを見て盛り上がる、そんな偏った価値観がその子の周りにあることがよく見える。そして私はそれが嫌いだ。

 私がそれを嫌う理由、それは数字を見過ぎて本質を見失う人があまりにも多いこと。うんざりしている。数字を追うあまり、子どもの心をボロボロになるまで叩きのめす大人にたくさん出会ってきた。何も勉強だけじゃない。スポーツ、音楽... 子どもにとって一番大切な「楽しむこと」を大人が数字で塗り替え奪う。その数字がその子のものならまだしも、前述の子どもの様にあたかも自分の手柄であるかの様に自慢する大人の多いこと。そんな大人たちは、次第にそれが自分の実績であるかのように錯覚を始める。そして数字だけを見ていたその人は、自分しかみえなくなり、子どもを自分の実績のために使うようになる。本末転倒通り越して、犯罪級だ。

 実はそんな人に多く出会うのは、民間だけではない。塾や教室はある程度商売絡みだから仕方ない部分がある。消費者が賢くなる必要があるものだが。怖いのは公の学校や家庭内でもそれがあるということ。
 自分の評価を気にする教師が、管理職が、親が。市長が知事が...子どもを自分の実績にしようとしている。

 だから。

 だから、子どもたちには多くの大人と出会ってほしいと思う。学校では「先生の足並みが揃わないと」と、先生がみんな同じ顔で同じ感想を述べることがあるけれど、私はそれぞれの先生の色があっていいと思う。父親と母親の意見が違ってもいい。子どもはいろいろな意見に出会って、自分の色を見つけていく。
 怖いのは、足並みを揃えて「みんなそうだから」と思考停止させてから、利用する大人たち。本気で多様化を学ばせたいのであれば、大人は覚悟を持って自分の意見を伝えることだ。右向け右では、同じ人しか育たない。そしてそれは将来その子を苦しめ、この国を苦しめる。

 子どもの持つ色を自分の好みや実績ではなく、ただ一つの美しい色として認めてあげられたら、もっと日本は心が自由な国になるだろう。周りの大人が全員「あの大学に行く人は素晴らしい」「こんな点数取れる子は良い子」と言い続けていたら、知らない間にその子は自分を見失い自分を嫌いになる。大人が諸手を上げて褒め称える人がみんな同じパターンなら、そうなれない自分を責めるだろう。
 やがてその偏った価値観を持ったまま大人になり、その価値観に認められない自分自信を責め、人と比べ、殺めるに至る人もいる。

 子どもの頃から多種多様な意見に触れ、いろいろな考え方や生き方の大人と出会い、対話を通して成長していたら。たった一つの価値観に悩まされることはないだろう。
 子どもたちに選択肢を。
 思考停止のコピーロボットを量産するのは、そろそろやめよう。

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