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リアル

 娘のボランティア活動の送迎などしていたが、一緒にどうかと誘われ炊き出しに出かけた。暑い夏の日。寒い冬の日。毎回の参加ではないし、行ったところで私は他のボランティアさんの見様見真似しか出来ず、自分の無力さを感じながらも、私に出来ることはこれを伝えることかも知れないと感じてここに記している。

 小学生の頃、通学路のあちこちにブルーシートや木で覆われた家の様なものがあった。路上生活者が目に見えて多い時代。大人たちは決まって「あの人たちはその生活を選んでいるのだ」と私たちに話して聞かせた。私たちが家に住むことを選んでいるのと同じ様に、彼らは外で暮らすことを望んでいる、という言葉を子どもの私たちはそれをそのまま受け取るしかなく、私は毎日通学路の途中で出会う彼らのことを気ままな人たちなんだと思って見ていた。
 ただ大人たちの「彼らは路上を選んでいる」という言葉がどういう意味を含んでいるか、それだけが心に残り続けた。

 それから私は目の前の生活のことを考えることで精一杯の日々を過ごし、40年以上の月日が流れた。そんな中で娘が参加した活動。帰ってくると娘は他のボランティアの方々から聞いた話を熱心にしてくれた。
 国や自治体の判断で街はどんどん新しくなり路上での生活を余儀なくされている方々が立ち入れない様に、休めない様に、住めない様にとルールや街の仕様を変えていった。
 公園のベンチで誰かがずっと寝ていたら他の人が使えずに困るだろう。ただ、その人を寝そべられなくする前に、その人が公園のベンチで寝ずとも安心して眠れる場所の確保を考える方が先決なのではないか…と娘は語った。思考停止の大人よりもずっとフレッシュで当たり前のことを当たり前に話す娘を見ながら、ふと私たちはいろいろなことを置き去りにして、何をこんなに急いでいるんだろうと考えた。

 前に前に進め、と育てられ社会に押し出された私たちは馬車馬の様に目隠しをされ、自分の手元しか見えない様になった。誰かが困っていても苦しんでいても、知らずにそれを見て見ぬ振りをする様にセンサーがオフにされた。その代わり、自分が困った時にも誰にも頼れない社会がそこにあった。
 自分が毎日食事をし、季節に応じた衣類を着て家に住む、ということが当たり前になり世界中の人たちがその様にして生きていると信じ込んでしまう。
 時々テレビや路上で困っている人たちがいる、という現実を見かけても「これは、この人たちが好きでやっていることだ」と思うことにする。または「努力が足りない」とかなんとか。その人たちが産んだ結果なんだ、自分は関係ない、とまた前だけを見る。

 でもね、一旦出会ってしまったら。一旦じっくり考えてしまったら、もう目隠しをして前だけを見る訳にはいかなくなるんですよ。
 本能が、このままじゃいけないだろ、と叫ぶんです。
だから、敢えて見るんです。出会うんです。自分の正常な感覚を取り戻すのです。

 自然の中で助け合いながら一緒に成長してきた動物たち、人類。
その本能レベルの能力を、権力者たちのあらゆる工夫で失くされてきた私たち。
 このまま自分のことだけ、自分の手元だけ見て思考停止していたら、みんないっしょに滅びていく。いや、或いはもう既に精神レベルでは滅びているのかも知れないな、そんなことを思う。

 知ることは大切。体験は子どもたちだけでなく大人にとっても大切。思考停止はまだ解除出来る。これを次世代に繋いで真に滅びるようにガイドしていくのではなく、まず私たちが本能を取り戻したい。
 希望はある。そう信じたい。

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