手を伸ばしたらいつでも
私は小さな英語教室を運営していて、週に一度小学校に英語指導のお手伝いに出かけ、一ヶ月に数回大人の方の英会話、また毎週オンラインで遠くに住む人たちの英会話や日本語の伴走をする。そこで心がけていることは、
「その人をその学びから遠ざけないこと」
その人が嫌になる程に私が頑張らないことだ。先生というのは、どれだけ熱意を持って生徒に教え込むかが大切、みたいな感覚があるけれど。実際は生徒を手取り足取り学ばせるという行為こそが、間違いであると今は断言出来る。教育者としてすべきことは、ズバリ「邪魔をしないこと」。
一つの考え方に導くために十分だったテレビやラジオは、今や半分以上がyoutubeやtiktokに代わっていき「一つの方法」「一つの価値観」のみを信じる大人たちはどんどん時代に取り残されていく。子どもたちや若い親世代、若い先生たちの方が時代に合った新しい方法に心が開かれている状態だ。でも未だに教育を仕切っているのは、かつて「団結と従順」だけが日本を成長させたと信じている人たち。もちろんその歴史の中からも学ぶことは多い。ただ、同じことが永遠に通用する程、私たちの歴史は止まってはいない。むしろスピードを上げて加速していくかの様にどんどん進んでいく。進みながら広がっていく。人それぞれ違って、それぞれが違う能力や特徴を持っている。みんな同じ様に機械の様に動かされる教育から、それぞれが自分の持ち味を生かして社会を支える教育がより必要になってくる。世界規模でそれが進んでいる。「全員一緒に」がベースにある考え方は視点を変えて広げていく必要があるのだ。
そういう中で、海外の教育者と一緒に学ぶ場はとても貴重。各国の今を知ることで、日本の教育に足りていないものや必要なものを得ることが出来る。そしてそれは子どもたちが既にインターネットの世界で知っていることばかり。つまり、今の時代に相応しい教育を知らないのは意識的に自分をアップデートすることのない親、先生、大人たちということになる。
私がもし公教育にベースを置いていたら、また別のことを言っているかも知れないが、私は民間の英語教室の一経営者。その立場から言うと私が今すべきことは「ただ伴走をする」こと。英語を習っている人が100人いたとしても、その100人全員が今英語を全力でしたいという訳ではない。それを理解していないと、私は間違った指導法を選ぶことになってしまうので、そこは慎重に。「英語を話せる様になりたい、そのために何か動きたい」と思っている学習者は100人中4-5人くらいだ。肌感。そして面白いのは、そのメンバーは固定しつつあるということだ。ハマればハマる程伸びていく。それを実感して更にハマっていく。
一方、教室には通っているが、家で他に英語関連のことをするわけでもなく宿題をするわけでもない、でも週に一度教室にくることを続けているから英語の音には慣れているし、そこそこ英語に近くなっている、という学習者も多い。そして私はそういう子にも「一番」があると知っている。所属するスポーツチームで優勝したい、そんな揺るぎないモチベーションで頑張っている子がいる。英会話は親が言うから仕方なく通い始めた。友達と遊ぶ時間が惜しい。英語に来るのはダルい。そんな子も多い。でも子どもたちがそこにいる限り、私は全員に公平に声をかける。
「みんなの一番が常に英語じゃなくても全然いいと思ってる。ここにいるだけで、英語を耳に入れてる。口は英語を発音してる。それでも十分。
ただ、もう少し英語したいな、っていう人は言ってね。LINEで質問は常に受けてるよ。卒業してもそれを使っていいからね。」
本気でスピーキングを伸ばしたい、そんな子には全力で協力する。アドバイスやヒントを送る。毎年ごく少数だけど、それを使って力を伸ばす子もいる。また、卒業して随分経った頃にふと私を思い出して「やっぱり英語をもっと伸ばしたい」と相談してくる生徒もいる。それも大歓迎。
それでいいと思っている。英語のベースは出来てる。あとはその子のタイミングだけ。それは「今」じゃなくても「高校生」や「大学卒業後」かも知れない。私が決めることではない。
その人が必要だと思った時に、その時に英語が手の届くところにあればいい。子どもの頃から耳に英語の音を入れていたから、音への違和感や恐怖はない。便利なフレーズもそこそこ知ってる。それだけでも、英語へのハードルはグンと下がる。大事なのは、「自分が欲したこと」。自分が求めた人は伸びる。それがいつであっても。それを知ってるから、私は焦らない。
前述した「英語にハマる子」は、確実に英語が大得意になっていく。何も言わなくても日記を書いて見せてくれたり、英語を話す動画を撮って「発音を見て欲しい」と頼んでくる。中学生になったら「どうしてこの答えがこうなるんですか」とテキストの写真を送ってきてくれる。そういう子にはとことん付き合う。その子たちは「知りたいことを知るために動いている」から。その主体性と創造力は大切にすべきことだから。
私が関わる全ての学習者が同じ権利を持ってる。それを使うか使わないかは、その人次第。使う人は全力で応援するけれど、使わないからといって残念には思わない。その人の方法、タイミング、ボリュームで全然OK。私が伝えたいのは、英語教育云々の前にどうしても欲しいものを自分で掴みに行く姿勢。
私もそうだった。子どもの頃から英語を習っていたけれど、完全に話せる様になったのは23歳の頃。その時に子どもの頃ゲームをしながら話していた英語がどんどん蘇ってきて勇気が出た。あの時の感覚が私を助けてくれた。私が今まで関わってきた学習者で英語で活躍している人たちはみんなそうだった。人生の内でいつでも良いから、それを味わって欲しい。英語だけじゃない。なんでも、そう。欲しいものがあったら、ただ待っているだけじゃなくて、自分から掴み取りにいくべきだ。それが人生を豊かで楽しいものにしてくれるから。少し厚かましくなってもいい。だから今、教室では「少し厚かましくなる」ことも味わって欲しい。
私たちは受け身の教育に慣れてしまっている。親も子も先生も。それが教育のスタイルだったから。でも一歩この国の外に出ると、授業中にそれぞれの学習者が質問をするのが当たり前の教室がある。わからないこと、納得いかないことはとことん話し合う教室がある。宿題の内容を先生に交渉する教室がある。そんな環境で育ってきた人たちと共に生きる社会が目の前にある。その中で、受け身だけでは自分の欲しいものには届かない。
だから私は、学習者が直感を磨くのを邪魔してはいけないと思ってる。闇雲に禁止や命令をしたり、考えさせずに私の思い通りに動かして満足していてはいけない。「先生の言う通り」にする子どもたちを育ててはいけない。子どもたちには自分の声を聞く力を贈りたい。本物のコミュニケーションを味わって欲しい。ゆっくり待って見守ることが最大の教育。自分が欲しいものを自分のタイミングで、いつか掴みに行って欲しい。そう信じて、今日も見守っている。