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脱・教育虐待

 嘘に嘘を重ねて、何が嘘かわからなくなった人たちを見ているのは辛い。

 教育を突き詰めて考えたら、社会が見えて、その先には政治。このところ政治をじっくり観察している。

酷い。

 今まで政治に興味を持たなかった、というか「プロの政治家が国民のことを考えてしてくれていることだろうから、間違いない」と信じてきたのが、間違いだったと言わざるを得ない今の状況。

自分勝手な大人たち

 大人になって出会ってみると、実に自分中心な大人が多いこと。それも権力をある程度持っている人と話していると、時々意味がわからなくなる。
学歴?
地位?
それが信頼材料になる時代は終わったのかも知れない。

 尊敬する方が言われた言葉
「学歴を履歴書に載せるのを禁止する法律を作れば良い」
そんなの無理やろ、と一瞬思うけど、どうしてそう思うのか。
昔は学歴はその人の能力を単純に表していたのかも知れない。勉強が他の人より得意で好きな人。その能力を社会の為に使おうと考えている人。だからこそ、その力を社会をより善くするために使える仕事に就いていたのだろう。
 しかし、今はそれが極端に理解されてか、学歴があれば何とかなると最短距離を考えて、そこだけを見る人たちが増えている。
「すべてあなたのため」と言われて勉強して人を蹴落とし生きてきた結果「自分のためになること」しか考えられない人が出来上がる。今、立派な学歴を持ち国の大切な部分を任されている人たちや会社で人を育てる立場の人の中に、心無い発言をする人や、人を人とも思わない様な対応をする人がいるのも、そこから理解出来る。そういう人は総じて自分が傷ついたりバカにされたりすることを異常に怖がる。自分自身をどこかに置いてきたのかと思う。自分を置いてこないとこの競争に集中出来なかった、幼い子どもなりの生きる知恵だろう。

負の連鎖

今怖いのは、学歴最短距離を走らせようと頑張った親の子どもたちが、今の親世代だということ。そしてもっと怖いのは、昔の親たちは自分が貧困で苦労した、という経験上「我が子には幸せになってほしい」という想いもあったのに対し、今の親世代はそれを「当たり前」だと思っているということ。「想い」はどこかに押しやられ「当然のこととして、子どもに要求するもの」になっている。子どもに対してテストの良い点を求めるのは当たり前で、どんな子であろうと欠点は許さない。そんな大人が今無意識に「教育虐待」の加害者になっている。

  私自身は、親が学歴重視でなかった上、とにかく遊んだ子ども時代を過ごした。そしてあらゆる職を経て今はフリーランス。ずっと自由に自分で探して生きてきたので、子どもたちにも自分で切り拓く楽しさを味わって欲しいと思っている。
 子どもたち曰く「母さんは変わってる」でも、自分で選んだことは自分でしか解決出来ないと思うから、ある意味人生の厳しさを一番肌で感じさせているのかも知れない。でも心が自由だったら、自分で考えることが出来る。必要な物を求めて行動することが出来る。人に助けを求めることだって、自由に出来るのだ。自分の心と向き合って時にはじっくり話し合い、旅を楽しむ様に生きて欲しい。

大人と子どもの気持ちのズレ

 私のちょっと変わった目で見て思うこととして、今一番の心配は今の教育虐待を受けている子どもたちの未来。既に競争の中で人のことばかり気にして、忙しい毎日に自分の思考を巡らす心の余裕もない。これで将来しっかり考えのある大人になれるとは、到底思えない。
 そしてそれは今の大人そのものにも同じことが言える。「競争の中で人のことばかり気にして忙しい毎日に自分の思考を巡らす心の余裕がない。」そんな大人が自分を認めてもらう手段として我が子を「出来の良い子にしたい」と願うのは自然な流れだ。 
 でもそれは子どもサイドから見ると、自分の持ち味や個性は無視されて、求められるのは大人にとって都合の良い姿一択なので、それに乗っかっていればOK。でも自分自身がそこにある以上、他の人の希望する姿を演じきることには限界がある。それは人それぞれで、ずっと演じきる子もいれば、違和感だらけでその場にうずくまってしまう子もいる。そこで何とか出した行動がきっかけで親が初めて子どもの気持ちに気付く、それを子育て失敗だと言う人もいるが、それはラッキーな方だと思う。ほとんどの人がそれに気付かずに大人になる。気付くのは大人になってから心を病んだり、行き詰まったりした時、ということも今では決してレアなケースではない。子どもの頃、大人に無理やり引っ張られて自分自身を押し込んだ型がきつくて、苦しくて、でもその苦しさがその型のせいだとは気付かない。そのまま無理やり同じ型にはまっていようとい続けることで、より自分を苦しめてしまうこともある。そこで自分と向き合うチャンスを得られた人は、その型の存在に気付く。幼い頃に与えられた思考は、なかなか本人の力だけでは変えられない。人や専門機関の力を借りて生きやすい方向に自分を誘導してやることが大切。そこに型があることを理解するのが最初の一歩だ。

 その人が自分らしく心健やかに、心豊かに生きていく為には、幼い頃の大人との関係は大きい。親や先生、子どもを取り巻く大人は、まず何のフィルターも通さずに目の前のその子自身を見るべきだ。その子が好きなこと、集中出来る方法、学びを深めたい分野はなんだろう、とその子との対話を通して一緒に考えるべき。
 大人が決めたことをその子にあてがって、勝手にレベルを設定し、そこに到達出来なければ叱る、などを毎日繰り返していると「自分を守ることで精一杯」の子が出来上がる。そんな人の集合体は、思いやり溢れる温かい社会とはまるでかけ離れた社会。この社会がずっと続くと、社会全体が滅びる。

教育をデザインする真意とは

 今こそ、教育をそれぞれがそれぞれの子どもに合わせてデザインする時代。以前そのデザインが、良い学校に入れて…という結局ワンパターンな考え方で報じられていたが、そこには学校以外の場所で学ぶという選択肢も今後増えていく。「大人にとって都合の良い姿ではなく、その子自身が生きやすい生き方を一緒に探す」そのための手段としての学校であることを忘れないでいただきたい。人生は長い。学歴に心を奪われすぎて、その子の根っこにある魂をどうか、粗末に扱わないで欲しい。

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