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ステージで遊べ!

 私の小さな英語教室では、この規模にも関わらずホールを借り切っての発表会、というイベントを開校当初から行っている※

ちょっと変わった発表会

 私の教室のコンセプトは「ステージの上で遊ぼう」
普通に生活をしているとステージに立つ機会は少ない。学校の発表や習い事の発表はあるかも知れないけれど、私がしたいことは大きなステージに立てたら何をしたいか何を見せたいかを自分で企画から練習、発表まですること。そのための話し合いもレッスン中にクラス毎に行う。英語教室だけど、ここは日本語で真剣に行う。アイデアを出し、一人でもクラスに反対の人がいたら、それはしない。だから、じゃんけんや多数決では決められない。したいことがあったら、したくない人がどの部分に引っかかっているのか、形を変えたら出来るのか、そんなことも考えながらみんなで考える。
 普段のレッスンで子どもたちの中には「ここでは自由に発言できる」という安心感があるから、みんな思い思いにアイデアを出してくれる。私では到底思いも及ばない様な素晴らしいアイデアが次々に出てきて、私はただただ感心しながらそれを見ている。

 ここで良いことは、例えばあるクラスで「クッキングをしよう」という話になる。英語教室だから、英語でなんと言えば良いかは私が手伝いながら原稿を作っていく。(ここは簡単)でもこれは子どもたちが知っている「覚えて発表する」発表会じゃない。「自分で必要なもの持っておいで」とだけ伝えておく。それからサラッと「お料理番組ってこんな感じだよね」と私がお料理教室の真似をして"I put sugar in the pot." と言いながらパラパラと砂糖を鍋に振り入れる動作を見せる。それだけ。
 毎週練習の中で自分で作った材料や家の鍋を持ってくる生徒が出てくる。「お、そういうことか」と他の子も翌週何かを持ってくる、作ってくる…
その繰り返しで迎える当日。
子どもたちはエプロンをつけ、大きな動作で料理しながら英語で説明して客席に見せる。さながらお料理番組。かなりリアルな内容で子どもたちの表現力に驚いた。
 私が「こうしてこうして」と手取り足取り教える前に、子どもたちはただ「どうやって見せたら実際お料理しているみたいに見えるか」を研究して実践して、自分でその表現に必要なものを用意したり作ったりしてきたのだ。

 発表会の最初に客席に向かって話したが、これが私が考える「学び」だ。人と比べられることもなく、強制されることもなく、自分の頭と経験を使ってどこまでも想像していく。人の発表を見て「すごい」と思うのは自分。大人がわざわざ人と比べて「もっとちゃんとやれ」なんて言わずとも、自分でちゃんと感心して真似して、自分のものにする。それが学びの原点。もしそのタイミングがこのステージではなくても、きっと放っておいてもその子は次のステージのことを考える。「次はどんなことをしよう」。ここでけなされてしまったら、ステージに立つことさえ怖くなる。大好きな人から「失敗だった」と言われることと、自分が「今回は満足いかなかったけど、次はこれが出来るかも」と思うことは全く違う。本当に違う。
 だから発表会の最後には必ず、「今日はただただステージに立ったことを褒めてあげて欲しい」と伝える。子どもたちにも『今日はたくさん褒められてね』と伝える。

コール&レスポンス

 私はいつもクラスの中で「コール&レスポンス」を感じている。私が投げた言葉に同じくらいかそれ以上のレスポンスがある。子どもたちが思い思いの言葉で伝えてくれる。自分の経験、考え、創造…
私の姿勢はいつも「もっと聴かせて」。幼児や低学年の時には日本語でも英語でもたくさん話してくれる子どもたちも、その内にだんだん話さなくなる。でも高学年や中学生になると、不思議と英語だと話してくれるようになる。日本語を使う環境の中で「あなたの本当の気持ちは」「考えは」と聞かれることがない日常を過ごしていると、当然日本語でその言葉は出ない。
 ただ、英語教室ではいつも私が「もっと聞かせて」と他愛ものないこともなんでも尋ねる。「めんどくさ」と言いながらも子どもたちは知っている英語で答えてくれる。英語では自分のことをもっと話しても良い、本音だって言って良い、そのマインドを育てている。
 子どもたち一人一人の考えは尊い。同じ意見でも理由が違ったり、同じことを言うにも表現が違ったり。それが本当に美しいハーモニーになって、私の耳に届く。

 そんな子どもたちだから、容赦ない。
発表会の順番決めの時に、あるクラスで全員最後になりたくない、と順番が決まらない。どうするのかな、と思って見ていると「じゃ先生を最後にしよう!」と。なるほど、考えたね。断る理由もないので、こんな不思議な理由から、スピーチのアンカーとなった。
 これまで何人もの生徒を「演台でスポットライト浴びるなんて経験、なかなかないんだから」とスピーチに導いてきた私、実はこれが人生初めての演台でのスピーチだった。

翻訳機

 自分がスピーチをすることは少し早めに決まっていたけれど、結局準備はギリギリ。子どもたちへのメッセージも込めて「学ぶことの面白さ」について話してみることにした。
 私は幼い頃勉強が嫌いだった。人に何かを言われて何かをすることが極端に嫌いな子ども(今も)だった。何かを創り出すことが好きだったから、それを手取り足取り先に色を決められたり形を決められたりすることが嫌いだった。だから、時々休みの日に自分でカレンダーの裏を繋ぎ合わせて巨大な紙を作って大きな絵を描いてみたり、キャッツアイに憧れてカードが壁に刺さるまでずーっと練習していたり。そういう自分でしてみたいことをとことんするのが好きだった。時間はたっぷりあったから、とにかく自分が飽きるまでずっと同じことをし続けた。今口笛が吹けるのも、指パッチンでリズムが取れるのも、当時の練習の成果。カードは壁に刺さらないままだったけど、ワクワクしながら練習するのは楽しかった。そう、私はただ目の前のしたいことをしたいだけやっていただけなので、その先の成功はどうでも良かったのかも知れない。「昨日よりちょっと角度が良くなった」とか「昨日より音が出た」とかそういうのが楽しかったんだと思う。
 …以上の様な話を短く書いて、最後は「勉強に疲れたら、今自分がしたいことをしてみよう」ってな感じでまとめた。結局人にさせられる勉強は伸びないけど、視点を変えて自分が楽しめる方向から攻めたらうまくいくことが多い。子どもたちの柔軟な心にそれを届けたかった。方法は一つじゃない。

 そしてもう一つ。私はその自分で書いた英語のスピーチを全部翻訳サイトの「English」の方に流し込んで日本語に翻訳し、それを会場の保護者に配布した。そして今の翻訳機がいかに素晴らしいかを見ていただいた。

ステージの上から

 私が人生初のスピーチで伝えたかったことは、こうして表現することで伝わることがある、声のトーンや表情、動き全てから掴めるものがあるということ。翻訳機がまとめた私のスピーチは素晴らしく、私の想いを見事に美しい文面で伝えていた。もちろんこれからこんな機械を使って旅行がもっと楽になると思う。トイレの場所、お土産屋の場所は聞けるし何不自由なく旅を楽しむことができるだろう。

 しかし私が語学を勧めるのは、海外でトイレの場所を聞くためだけじゃない。あなたに、もう一人のあなたを育てる楽しさを味わってもらうため。日本語の自分ともう一人、英語を話す英語のマインドの自分。国際人マインドの自分を育てること。その楽しみは何者にも代え難い。言葉は道具。誰でも使える。翻訳機でも代わりはできる。
 でもその言葉を使う時には自分を少しその文化や背景に馴染ませる必要があり、そこで新たな自分が生まれる。なりたい自分、憧れる自分。
おしゃれをしたりお化粧をしたり髪型を変えたりすること以上に、新しい自分を育てていくのはワクワクして楽しい。自分の中に幾つもの視点が生まれ、視野がぐっと広がる感じは、たまらない。是非それをステージの上で味わって欲しかった。

 そして見ている限り、子どもたちはそれを存分に感じてくれたと思う。ステージ上の子どもたちは、いつにも増してキラキラ輝き堂々としていて、笑顔だった。





※2020年のみ、新型コロナウイルス感染症の影響でホールが使えず発表会を中止した。

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