見出し画像

洗脳

 当たり前のことだが、洗脳された本人は洗脳されていることに気付かないものだ。そして教育は一つの洗脳であり、周りも皆洗脳されていたら尚更自分が洗脳されていることに気付かないものである。そしてそのほとんどは一生洗脳されたままなのだ。

教育=洗脳

 以前三浦綾子さんの本「道ありき」の中で、戦前に教えていた教科書が戦後墨塗された時の心境を読み、ゾッとした。同じ指導者という立場で、自分が信じて教えてきたことが実は間違っていたのでは、と気付くことの恐怖。
 戦争は最もわかりやすい例だとは想うが、今の教育の中でも指導者自身が何の疑問も持たずに、ただ「こう指導する様に」と与えられた内容を信じて指導していることが多々ある。そういった指導内容への信頼ももちろん必要なのだろうが、怖いのはそれを自分の中に落とし込んで吟味しその目的も考えて味わう時間も心の余裕も指導者には与えられていないことだ。それと日本のトップダウンのシステムの中で止むを得ず、上から降りてきたものをそのままの形で指導しなければならない状態が続いていて、今それが大きな混乱を生み出している。

 そして教育現場では先輩教師から指導される中で脈々と受け継がれる時代錯誤の指導法や校則などが、ニュースを賑わわせている。

洗脳しやすい環境=学校・部活・日本

 教育が人一人の人生を変える程の洗脳を行なっていることは、どの国でもどんな場所でも多かれ少なかれあるのだろうが、特に日本でそれを強く感じるのは、その環境にあると思う。
 
 かつて外資系の営業の仕事のトレーニングだけを受けたことがある。10日間のトレーニングでの決まりは以下の通り。
●全体100人くらいのトレーニング生を細かいグループに分けて、その中で成績を競わせる。またそれを大きく束ねて大きな一つの代のグループとして、他の代(先輩など)と競わせる。
●休み時間や昼食、仕事後の会食などは同じトレーニング生だけでは行かない。必ず先輩を伴うこと。
●マイナスな気分にさせる様な発言は禁止。常に前向きな言葉を掛け合う。

 その中でその商品がいかに素晴らしいかを教え込まれ、立派なセールスマンの出来上がり、ということだ。
 これは外資系の会社が研究し尽くした「洗脳してその会社にふさわしいセールスマンを育成する」ことを目的としたプログラムだったので、その目的にふさわしいものであったのだが。

 さて、この様なものをどこかで見かけたことはないだろうか。狭い場所にほぼ一日中閉じ込め、アフターファイブや休日の過ごし方まで指導、管理されその環境までもが決められている。学校、部活のセットと似ていないか。

放棄

 洗脳された頭は、自分らしく考えることをストップさせる。よく「自分の頭で考えろ」という言葉を耳にするが、実際それを学校生活の中でしてしまうとはみ出して先生の標的になり、友達の中で浮く。残念ながらそれを学ぶのもまた学校教育の中なのだ。集団を大事にする文化、社会の中で私たちはそこに馴染む、溶け込むことを学ぶ。それはその人の一生に影響するのに十分な時間であり、密度である。

 そんな子どもたちが大人になったらどうなるか、周りを見渡してみるとわかると思うが、自分の政治的立場を明らかにしたり、労働や生活環境への不満を口にしたり、デモや何かの活動に参加したりすることが著しく困難な環境が、この国にはある。
「自分の思った通りに動くこと」によるダメージが大きいことを既に学んでいる私たちは、簡単にそういうことをしない。それが結果として「自分の意見を出さない、出せない大きな束」を作り出す。

違和感

 その中で今スポットライトが当たるべき存在は、その集団の中で洗脳されにくい、違和感を持っている子どもたちである。その子たちがなぜ洗脳されないのか。それを探ってみるのも面白いかと思うが、今の時点で私が感じていることは「自由な発想ができる家庭環境がある」ことと、「違和感に弱い特性を持っている」「日本以外で生活した経験がある」ということなどが学校教育の中で洗脳されにくい要因になっているということだ。そして私はその全てに当てはまる。
 私の12年の学校生活は「違和感」に彩られていた。たまたま同じ教室の中にいる子たちと、うまく足並み合わせてやっていかなければならないこと。同じ格好で同じことを揃えてすることこそが美しい、という教え。変な校則。先生の説教の言葉が意味不明(一つ一つの言葉に意味はあるのだが、果たしてこの先生はこの言葉を本気で信じて言っているのかが疑わしかった。)障害がある友だちを先生やクラスメートが変な特別扱いをすること。
思い出すだけでもそんな感じ。保健室に逃げ込むことやズル休みをすることもあった。そうやって理不尽だらけの毎日、心のバランスを取っていた。
 そんな私の心から違和感が消えたのは、海外で生活をした時。私の話を聴いてくれる人たちはいても、私のすることをいちいちジャッジしてくる人はいない。その代わり、自分の意志や考えを正直に話し合える場があちらこちらにあった。その3点セットを併せ持った私は、今この国の中でとても幸せだ。人と自分が心地よい程度の距離感で付き合い、フリーとして自分の好きな仕事をして生活をしている。
 違和感を持ち洗脳をそこまで深くされぬまま、海外で自由に自分を表現する体験をした私は、今自分にとても正直だ。

被害者

 そんな私から見たこの社会は、諦めた人たちと、嘆いている人たち、強がっている人たちで溢れている。そして悲しいことに、それはどんどん若年化している。希望を持つことが出来ない幼児。人を排除することを当たり前だとする小学生。目立つ人を攻撃することで自分の「正しさ」を確認しようとする中学生。そして大人にはそれが全て詰まっている。
 それはみんな、この洗脳の被害者。そしてそれを一生引きずって生きていくのだ。途中で自分が違っていたのかも、と思うことは自分の今までを否定することに思えて本当に辛くて怖い。周りの人と同じだという安心感の中にいたのに、そこから敢えてはみ出すことはもう出来ない、そう思うかも知れないけれど。もしも小さな違和感を感じたら、それはあなたの中にいる本当のあなた自身が産まれる瞬間。自分らしい生き方を、心豊かな生き方への入口。ちょっとの痛みや不安を通り過ぎた先には、あなただけの人生が待っている。どうかその小さな違和感を大切にして欲しい。

 目をそちらに向けると、今幸せそうに見える人はそのプロセスを経ていることに気付くだろう。さ、勇気を出して。

読んでくださって、ありがとうございます。 もし気に入ってくださったら、投げ銭していただけると励みになります💜