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『古今著聞集』刑部卿敦兼と北の方03(古典ノベライズ後編)

(昨日 ↓ から続き)

 オレの怪訝な顔に気が付いたらしい。
 寝間着の妻は「だって」とか細い声で告げてから、細い指で電子ピアノを指さした。

「ジャックが、きちんと入ってないから」

 見れば確かにそうだった。
 ヘッドフォンのジャックを差し込んだ気になってはいた。
 けれども、どうやらオレが酔った耳で聞いていたのはヘッドフォンの音ではなかったようだ。
 だから深夜のリビングに、電子ピアノからの、音は駄々洩れ。
 差し込み損ねたヘッドフォン越しにすら聞こえるほどの大音量で、オレは若かりし妻にささげた愛の歌が何度も繰り返していたようだ。

「ねぇ、あっくん」

 と切り出したものの、妻はそれきり口をつぐんでしまった。
 言いたいことがあることは、見ればわかった。
 その美しい表情の下で、種々の感情が渦巻いているようにオレには見えた。
 それは昔を思い出した懐かしさや、ブサイクなダンナを邪険に扱ってしまった後悔や、あるいはその他、能天気なオレには思いも及ばぬ様々な感情なのかもしれない。
 意を決し、妻はなにかを言おうほとんど口を開いたのだが。

「なんだよパパ、夜中にうるさいなぁ」

 小5の息子が起きてきた。
 眠そうな目をこすりながら、不平をこぼす。
 息子に聞かせられぬこともあったのだろうか、妻はやむなしといった様子で、息子と入れ違いにリビングを出ていった。
 妻とのふれあいの代わりというわけではないけれども、オレは息子の頭をなでる。

「おお。起こして悪かったね。さぁさぁ、もう寝ようかな、ぶはははは!」

 激烈な能天気な生来の性分が戻ったのか、はたまたそれを装った強がりなのか、それは自分でもよくわからない。
 ともあれ翌日から。
 妻はいままで以上にやさしい妻へと戻り、オレもいままで以上に能天気なオレに戻った。
 我が家に通常の穏やかな生活が戻ってきたことだけは間違いなかった。

 そうして数日を暮らすうちに、決めた。
 オレを邪険に扱った理由を、妻には聞かないことにしよう、と。
 だってひとたび尋ねてしまえば、夫婦の関係や息子も含めた幸せな家庭を自ら崩しにかかってしまう気がしたから。
 あの日、夜中にピアノを弾く直前に自分の胸の奥から湧いていた、ほんの少しの妻を恨めしく思う醜い気持ちが、どす黒く膨れ上がらぬ保証はどこにもないのだ。

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