仕事から逃げたこと

あまり人に話してこなかったこと、あの仕事から逃げたこと

 これまで、あまり人に話してこなかったことがある。新卒で入った会社で、仕事から逃げた話。

 別に、大したことじゃないし、意図的に隠してきたわけでもない。話題に事欠いたとき、話のネタにしたこともある。でもそういう際にも、仕事で関わることがなさそうな人に、冗談めかして話すだけだった。

 それはたぶん、仕事で関わる人に聞かれたら印象が悪そうだと思っていたからだし、自分でも無意識に、負い目に感じていたからじゃないかと思う。

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 新卒で入社したのは、テレビ番組に字幕や吹替をつける、テレビ番組の語版制作会社だった。ぼくは主に、日本の番組に英語字幕や吹替をつける、英語版制作を担当していた。(大学時代に一年間イギリスで生活していて、一応英語が使えたから。)

 20人に満たない小さな制作会社で、都心の雑居ビルに入っている。入社した当初は、オフィスとして小さなビルのワンフロアと、もう一か所、動画編集室としてこれまた別の雑居ビルの一部屋を借りていた。

 会社の人たちは、みんな、インテリといって差し支えない文化的な人々だった。大学時代に演劇部に所属して、その流れで学生運動にも関わっていた30代。桜前線を追って毎年春に四国から東北まで旅し、行く先々の小料理屋で一人飲み歩く粋人。会社を辞めて脚本家になり、月9のドラマを担当する売れっ子になっていた人もいた。ぼくの教育を担当してくれたのは、大学時代に年間500本以上映画を見ていた、これまた文化的な先輩だった。今から振り返っても、素敵な人が集まる、とても好きな会社だ。

 ぼくは、ぼくの教育を担当してくれた先輩のことを、すごく尊敬している。大柄で、中学校までサッカーをやっていた、人の懐に入るのがとても上手い人で、収録現場の仕切りや調整が、抜群だった。

 大学時代にアイルランドに留学していたその先輩と、ぼくが、英語版の仕事をメインで担当していた。局から依頼された番組に対して、社外の英語ネイティブ翻訳者と一緒に、字幕や吹替をつけていく。台本作業。各所の調整。収録。仕事内容としては、今やっている紙の本の編集の、番組(動画)版で、その経験は今の仕事に大いに活きている。

 そんな制作会社に、あるとき、イベント運営の依頼が来た。何故、と思う人もいると思う。ぼくもそう思う。それは、社長の知り合いからの依頼で、海外に関わるイベントだった。なんでも、ぼくの入社前に、同じ人からの国内向けの大きなイベント運営依頼を、先輩が回したことがあって、その流れでの依頼だったらしい。当然、先輩とぼくが担当した。

 そのイベントは、一年をかけていろいろな文化人を海外に派遣、現地で文化交流を行って、一年の最後にそのまとめの報告会を行う、という大がかりなものだった。

 各文化人の予算管理、機材輸送や航空機手配。その他、いろいろな雑務。先輩のサポートを受けながらも、普段の仕事とは全く異なる、完全他業種の業務内容に追われ、社会人三年目のぼくは、仕事の負債を溜め込んでいった。普段の業務をこなしながら、二人だけで担当するのは無理がある仕事量・仕事内容だったと思う。

 量だけではなく、今振り返ってみても、どんな仕事内容だったか、その全容を説明するのが難しい業務だった。当初は、イベントの企画だと思っていた。実際、企画書も提出して、それが評価された。でも、ふたを開けてみると、企画のきの字も出てこない、管理、サポート、運営。仕事のスタート時点で、内容をしっかり把握できていれば、結果は変わってきたと思う。

 どれだけそれが困難な仕事だったか、条件に無理があったか、を並べ立ててみても、結局はぼくの力不足だ。ぼくより経験がある人であれば、他業種の仕事も回せただろうし、同じ経験値でも、一歩引いて工夫して、丁寧にこなせば、きっとクリアできた難問だったと思う。でも、ぼくにはそれができなかった。

 ある日、予算管理のエクセルシートを作成しながら、締めくくりの報告会の申し込み用Webサイトの確認を行っていた。ぼくは、そのWebサイトの確認用URLを、依頼主に回すのを忘れていた。依頼主から電話がかかってきて、夜10時くらいから激しく詰められた。依頼主も、プライベート含め忙しい時期だったようで、そんなときにミスをされて、かなり頭にきていたみたいだった。それまでも、何度も怒られ、呆れられていた。向こうにも、かなり不満が溜まってきていて、感情的になっていた。結局、一時間以上電話で詰められ、走って何とか終電に間に合った。(当時まだ横浜に住んでいて、終電は11時半だった。)

 その日がくる以前から、すでに、ぼくはだめになりかけていた。会社の携帯が鳴るのが怖かった。会社のメールが転送される設定にしていた、自分の携帯を開くのが怖かった。毎日睡眠時間は短いのに、夜は寝付けなかった。朝電車に乗るのがひどく憂鬱だった。(ただ、一時間以上かかる通勤電車で、毎日小説を読み続けていたから、それが楽しみだった。)

 すでにそんな状態だったぼくは、その日の電話で、完全に折れた。ここでぼくがした判断は、逃げることだった。会社の人は好きだったから、迷惑はかけたくなかった。だから、翌日、この仕事から降りる、なんだったら仕事も辞める、と直接先輩に伝えることにした。(そのくらいの体力精神力は、まだ残っていた。残っているうちに音を上げる我慢弱さで、ある意味よかったと思っている。)

 翌日朝、いつもより遅く出社したぼくは、先輩をオフィスではなく、動画編集室の方に呼び出した。動画編集室の奥には、会議室があって、そこは完全防音になっている。先輩が入った後、ぼくも続いて、後ろ手に会議室の重たい防音ドアを閉め、ハンドルを回してから、言った。すみません、この仕事、降ろしてください、と。

 行きの電車の中で、道尾秀介さんの『月と蟹』を読んで、涙腺を緩ませていたから、簡単に涙が出てきた。昨晩の電話内容、精神的に参ってしまっていること、もし降りるのが無理なら仕事を辞めようと思っていることを、泣きながら伝えた。

 本当に素敵な先輩で、そんな状態になるまで気付かなかったことを、謝ってくれた。そして、先輩の持っている普段の番組制作の業務を代わりに引き受け、ぼくの持っていた全てのイベント運営の業務を先輩に引き渡し、ぼくはその仕事から降りた。

 普段の仕事に、先輩の普段の仕事の一部が乗っかった状態だったから、それからも忙しかった。でも、精神的負担は一気に減った。寝られるようになって、携帯も見られるようになった。ただ、今度は先輩が、以前のぼくのような状態になっていった。でも彼は、そんな状態になりながら、なんとか仕事を完遂した。

 同じような状態になっている人がいたら、ぼくは迷わず、逃げたほうがいい、と言う。でも、ぼくはあのとき、仕事を投げ出さなかったらどうなっていたか、どうなれていたかを考えるし、あのときの判断を、感情的には全面的に肯定できていない。理性的には、投げ出して正解だったと思うし、同じ状態になったら、また同じ判断をしなければいけないと思うのだけれど、感情的には、悔しさがある。悔いが残っている。もしも残り一か月を乗り切っていたら、経験したことのない開放感があっただろうな、と夢想する。

 繰り返すけれど、誰かが当時のぼくと同じ状態になったら、絶対に逃げたほうがいいし、ぼくが同じ状況に陥ったら、逃げなければいけない。でも、感情的には、未だ、割り切れていない。

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