ありがとうもごめんねも

常識の奴隷にならないために ~したたかに、しなやかに~

 自分の考えや、今生きている社会の常識、価値観、考え方を相対化することは、とても大事だと思っていて。人は簡単に、自分の考え、自分の属しているコミュニティの考えが、「普通」で「当然」だと思ってしまうから。

 「当たり前」とされている考え方を相対化することを、ぼくに感覚的に意識させてくれるのが文学で、論理的に意識させてくれるのが、文化人類学・民俗学で。

 奥野克己さんの『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房)という本が、現代社会の常識を、ひたすら解体していっていて、驚くほど自分の中の「当然」を見直させられる。奥野さんがボルネオ島の狩猟採集民「プナン」と暮らして、考えたことの数々。彼らは、「ありがとう」という言葉も、「ごめん」という言葉も、持っていない。彼らは、反省をしない。彼らは、失敗から学んで成長することをしない。

 本の中に、「学校に行かない子どもたち」と「アナキズム以前のアナキズム」という章があって、この二つがそれはもうおもしろかった。ちょっと紹介したい。

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 奥野さんは、まずニーチェの言葉を引きながら、現代社会における学校教育は、「生と体験そのもの」、「生の直接的直観」から得られる知識ではなく、「教養」、「過去の時代と民族の極めて間接的知識」を教えるものだと示唆する。この示唆は、ぼくらには、なんてことないものとして受け取られると思う。けれど、プナンの人々の生活に照らしてみたとき、この示唆は、圧倒的な意味を持つ。

 マレーシア・サラワク州の政府は、森の中で暮らすプナンを、学校教育システムの中に組み込みたがっている。でも、「プナンを優遇する教育政策や小学校教員たちの努力にもかかわらず、今日に至るまで、プナンの『学校嫌い』は、一向に改善される見込みはない」。近隣に住む農耕民クニャーの中には、大卒者までいるのに。

 もちろんそれは、プナンは一生涯、森の中で過ごす場合がほとんどだから。大学にも行かない。出稼ぎにも行かない。森の中で狩猟採集をして、人生を過ごす。重要なのは、その森での生活から得られる、森での生活に必要な、直接的知識であり、学校で習う英語も掛け算も、そういう間接的知識は、彼らの生涯の中では意味を持たない。だから、彼らは、学校へ行かない。

 当然この議論は、そのまま日本の学校教育に当てはめられる問題じゃない、と奥野さんも言う。でも、そこで、こんな風に書かれる。

 ところで、私たちが暮らす現代日本では、いじめや不登校の問題をはじめとして、学校教育が抱え込んだ問題と教育の再生が、大きな社会問題となって久しい。言い換えれば、知識習得や人格形成の場としての学校が、現状としては負の社会問題を生みだす場となっている。プナンならば、学校がそのようなネガティヴな場であることを知れば、子どもたちを学校に通わせないことは間違いないと思われる。
 しかし、自明化されたがゆえに、現代日本の教育再生をめぐる今日の実践的な議論からすっぽりと抜け落ちているものがあるように私には感じられる。それは、「教育とは何か、学校とはそもそも何なのか?」という問いである。学校教育に対するプナンの無関心とでもいうべき集合的な態度を知れば、教育をめぐる根源的な問いが発せられなければならないのではないか。

 サラワク州政府は、学校に行かないプナンに対して、教育支援金を提示して、彼らを学校教育システムに組み込もうとしている、という。かなり強引なやりかただけれど、政府に、担当者に、校長に、教員に、悪気は全くない。それが正しいこと、プナンにとっていいことだと信じ切っている。権力からの、圧力。

 奥野さんは、「プナンのやり方は、現代日本における学校教育制度が唯一絶対のものではないことを、あるいは別のやり方があること、別の解決の可能性があることを暗示しているのではないか」と言う。

 思うのは、学校教育批判ではなくて、学校教育を相対化して、その意味ってなんだったっけ? ってことを、一からではなく、ゼロから考えてみたい、ということで。他の社会がどうあれ、日本社会に適応するためには学校に行かなきゃいけない、という対処療法的な話ではなくて、そもそも教育って、学校ってなんだっけ、社会に適応するってなんだっけ、日本社会に適応しなきゃいけないんだっけ、どうやって生きていくんだっけ、というゼロからの問いを、考えてみてもいいんじゃないか、と。

 で。奥野さんがこの章のすぐ後に書いているのが、「アナキズム以前のアナキズム」で。

 アナキズムは、国による専制政治、支配を良しとせずに、「国家なき自律的なコミュニズム」を理想とする考え方。簡単に言うと、政府はいらないから、コミュニティの中でやっていきましょう、という感じ。

 奥野さんは、例を出して、二種類のアナキズムを示す。一つは、プナンの中で東プナンと呼ばれる人たちのような、自分たちの居住地の森が伐採され失われることに対抗して、森林開発を妨害したり、ヨーロッパのNGOと協力して政府と交渉したりするアナキズム。もう一つは、西プナン(奥野さんの調査対象はこっち)のような、政府によって定住地を与えられて移住し、農耕技術を身に着けた後で、依然と全く同じような森での暮らしを続けるアナキズム。抵抗のアナキズムと、無関係のアナキズム。奥野さんは、後者を、アナキズム以前のアナキズムと呼んでいる。西プナンは、国家や政府を前提としない。

 奥野さんは、こう述べる。「(西)プナンはみな誰かの奴隷になることを嫌っている」。

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 奴隷にならないためには、抵抗じゃなくて、無関係、無関心という争わない方法もあるのか、とはっとしたのと同時に、自分は、奴隷になっていないか、と思った。奴隷ってきつい言葉だけど、規範に抑圧されている、常識に居心地の悪さを覚える、ということもなく、考えずに享受して、当然のものとして暮らしているのって、骨の髄まで奴隷化してしまうことで、怖い。

 プナンには、鬱病みたいな精神的病理が、ないらしい。奥野さんは調査した10年間で、会ったことがない、という。

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