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ここから⇧一ヶ月になります。
自分がしたい選択をしたことに安心しています。一方でやっぱり皮膚の動向にドキドキしています。
だから、本当は気にしたくないし、実際気にしてない時間はたくさんあるけど、気にしてる。痒いと勝手に手が行くし、手が行ったら気になる。でも、気にすることをあまり気にしてない。掻きたきゃ掻け、というのが、前と変わったところかな。
皮膚の様相をわざわざ鏡で確認したりはしていないが(そこまでは踏み込みたくないんだ)、触った感じ、悪くなってるようにも、そうでもないようにも思う。
三日前の晩、こんな発想がでた。
皮膚は、私の同志だ。

皮膚って、…まぁ皮膚だけじゃない大体の不調は…、心の現れだと、何となく思っている。だから今まで、私は何が問題なんだろう?何がストレスなんだろう?ストレスを無くせば治る…って感じで自分を見ていた。心の現れだから、私と同じ、、じゃあ私の同志だ…。
すると、なんか、許せた。あ、じゃあ出ればいいじゃん。痒いの。私の状態、まんま出ればいい。前に人に言われた、悪くなっても人に迷惑かけるわけじゃない、自分だけのこと…顔に酷く出てしまうなら辛いけど、私は首の後ろ。だって心は忙しいよ、ストレス無くなんないよ、ストレスあって人じゃん。

翌日布団に入り、寝入るまで思った…皮膚が同志なら、体全部だ。私を創る細胞全部私の同志じゃん。私の想像だと、細胞一つ一つはそれぞれに意志を持っていて同一ではない、けど、全体で調和して存在している、その調和の形が私の志と同じなんじゃないかと。これって、組織とか地球とか宇宙の成り立ちと同じかもしれんね。
皮膚の炎症は、調和させようとすることの、現れ。今は、炎症することで調和しているのかな。

そしてその翌日思った…
皮膚科に行くと、私より皮膚の状態の悪い人はいっぱいいる。そういう人を見ると、「がんばれ、がんばってるね、絶対治るよ」みたいな気持ちが起こる。と同時に、とても失礼だけど、自分より酷い人を見ることで、自分は全然マシなんだと安心もしてしまう。安心。そして気がついた。
私、人に安心して欲しいと思ってる。安心を提供したくて、話を聴くという起業を目指している。そんなら私、皮膚悪くていいや。顔は正直辛い。でも首の後ろ。電車乗った時とか、見られるとこ。見て、みんな見てくれればいい。あぁ、この人こんな首、痒そう、って。私、背低いし、みんな見えるよね。なんか、私みたいに皮膚が悪くて悩んでる人いたら、ぜひ見て、安心して欲しい。だから寧ろ、治らなくていい。…そんなふうに思った。
そしたらさ、めっちゃ楽になった。
皮膚も、誰かに安心して欲しくてそうなってるんじゃん?やっぱ同志なんか…。

ずっと治りたくて治りたくて、どうして治らないのか、何が自分は問題なのか、ストレスから抜けてもまた抜けても、何故治らないのか…そんなふうに自分を問題視してたけど、治らなくていいって思えたら楽になった。いや、治りたいんだけどさ(笑)

ストレスって、自分自身のものはもちろん、全ての人や物は影響し合って生きてるんだから、自分以外からのストレスも少なからずあるはず、無くならない。だから在って当然で、その私という状態が現れているのなら、それはそれで私なのだ。あらゆるものの混在、美も醜も濁も和も …正に人間そのもの。

私は最近、こうして、自分は人間である、ということを確認しているようだ。

「自分を問題視」か…そりゃ、つらいね☺️

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安心をあなたに。

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