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「気づく」こと 父は父、私は私


父と私


父は不遇な人だったと思っています。

NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾムです。

父は、9歳の時に、不運な出来事に見舞われて、家族を失いました。

詳細を記すことは、致しませんが、

ある日、突然両親と三人の妹達をいっぺんに失い、天涯孤独の身の上になりました。

親類、縁者で話し合いが持たれ、父は海を隔てた離島に住む、遠い親戚の元へと引き取られました。

それからは、たらい回しにされ、幾つもの引取先を転々とする少年時代を過ごします。

細かなことは、わかりませんが、どこに行っても厄介者扱いだったと聞いています。

引き取る親戚は、家族を失った父を案じて引き取る訳ではなく、世間の目もあり、9歳の子をひとり路頭に迷わせる訳にもいかず、やむ無く引き取ったのです。

最初から、責任分担の意味で、何年かづつ面倒を見る約束が交わされたそうです。

裕福な時代でもなく、食べ盛りの男の子を一人養うのは、大変だと思います。

一方で、多感な時期を厄介者として、過ごすしかなかった父は、どれだけ辛かったことだろうと思います。

青年になった父は、徴兵され、戦地へと赴きます。

父には思春期も、青春時代も無かったのだと思います。

父は複雑な境遇に育ち、複雑な心を持った大人になります。

父は結婚、離婚を経て、二度目の結婚で母との間に私が生まれます。
父が40歳を過ぎてからの、遅い子です。

父は飛び抜けて大柄な人でした。
世の男子の平均身長が160cm代半ばであった時代に185cmの長身でした。
今でこそ、それ位の身長の方も見かけますが、当時は飛び抜けてました。

私には、父のその飛び抜けた体格と、私に対する冷たさが、恐怖の対象でした。

父は普段、私を、そこに存在しないもの、として生活してました。
その様子を真似してみろ、と言われても、難しいぐらい、私をそこに居ないものとして、暮らしていたのです。

私も、必要がない限り口もきかず視線をよこす事もない父に、話しかける事は、ありませんでした。

例えば、家の狭い廊下ですれ違う時、父は私を避けることは、しませんでした。
歩調を変える事も、身を斜めにすることも無く、自分の太もも程度の背丈の私を跳ね飛ばしました。
そして、廊下に倒れた私に一瞥(いちべつ)をくれる事もなく居間へと消えていきます。

朝、洗面所で歯を磨いていると、後から来た父は、やはりそこに私が存在していないかの様に、ズンと私を身体で押しのけ、オロオロする私には視線を落すこともなく、歯を磨き、顔を洗い、うがいをして、立ち去ります。

説明し易い事だけ、お話ししましたが、普段の生活は一から十までこんな様子でした。

私は、父には私が見えていないんじゃないか、と本気で考えました。

殴ったり、蹴ったり、罵倒したりすることも、虐待ですが、徹底した無視、存在を認めないということも、完全な虐待です。

父は私にとって、私を無いものの様に扱い、眉一つ動かさず、視線をよこす事すら無い、冷たい横顔の印象しかありません。

よほど機嫌が良い時のみ、私に正座する様に促し、道徳やら正義論をとくとくと説きました。

男は強くなければならない。
男は優しくなければならない。
弱きを助け、強きをくじかねばならない。

父の話しは、薄っぺらで、紋切り型なのです。

父はおそらく、心に沢山のネガティブな思い込みを抱えた人だったのだと思います。

厳しい環境の中で育つうちに、心は凍りついて、その歩みを止めてしまい、成長することが出来なかったのだと思います。

心の中の「自分」を育てる事が出来ず、
結果、「自分」が成長する事で手にする成熟した感情とは、縁が無く、

外から見聞きした道徳や正義論を規範意識として持っているだけなので、

どうしても薄っぺらで紋切り型の話ししか出来ない人だったのだと思います。

心が育たず、「自分」を持ち得ないのですから、幼い我が子を可愛いとは、到底思えないでしょう。

無価値感に苛まれる母親が、我が娘と張り合ったり、ライバル視したり…と言う話しは耳にしますが、父と息子の間にも、父の無価値感が大きい場合、同様の事は起こります。

私は小学校3年生から地元の少年野球チームに入りました。
入る時は父が男は野球が出来ないとダメだと言い、父の勧めで始めた様なものでした。

私は野球以外の事でも父から誉めてもらった事は一度もありませんが、父は試合を観に来ては、試合が終わると、私が如何に素質が無いか、ダメな選手かを力説しました。

それでも私は、これまで存在が無い様に扱われていたので、父から話しかけられるだけで嬉しかったことを覚えています。

5年生になり、レギュラー選手になりました。

私が誇らしげに、そのことを父に報告すると、もう高学年だから、いつまでも野球なんかしてたらダメだ、と言われ、父がチームの監督さんに電話一本して、その日に辞めさせられました。

その時は、勉強しなければいけないという、父の言葉を信じていました。

中学校に入ると、どうしても野球がしたかった私は野球部に入りました。

父は以前と同様に他の選手と比較しては、私がどれほど劣っているか、ということを熱弁しました。

普段は喋らないのに、私にダメ出しをする時だけは、よく喋りました。

そして2年生の夏にレギュラーになったことを報告すると、また以前と同じ理由で退部させられました。

当時は、それでも、父は本当に私に勉強で頑張って欲しかったのではないか、と思ってました。

でも、今は、はっきりと父は幼稚な競争心から、私が上手く行くと、どうにも我慢がならず、取り上げていたのだと理解しています。

例として、野球に限ってお話ししましたが、私が得意なこと、好きなことを、ことごとく潰すのが、父の常でした。

私が物事が上手くいっている時に、居心地が悪く、すべてをひっくり返してしまう様な行動をくり返し取っていた事と、得意なこと、好きなことを、上手く行っているときほど、横やりを入れられ、潰された経験は無関係では無いと思っています。

父は自信を持てと説きながら、私が得意になったり、自信有り気に振る舞うことを、神経質なまでに、毛嫌いしました。

父は私が中学校3年の時にガンが見つかり、約3年間、闘病、入退院をくり返し、私が高校3年生の冬に他界しました。

最期の正義論


私が育った家庭は機能不全家庭です。

しかし、その状況は父の病気が発覚する、私が中学校3年生の時点で変わった様に思います。

罰当たりな言い方かも知れませんが、もしも、父が病気に倒れる事が無かったなら、私は、こうして生き延びる事は無かった様に思います。

私は幼少期だけで、心はネガティブでいっぱいでした。

例に挙げた野球ひとつとって見ても、父の言うことをきいて始め、父の言うことをきいて、辞めただけの話しです。

私は父からも母からもコントロールされ、自分を育てる事が出来ませんでした。

高校3年生のとき、父に最期の時が迫っても、私は、あまり見舞いにも行きませんでした。

少しも悲しく無かった事を覚えています。

そして、秋も深まった頃、父の病室に呼ばれました。

父はもう末期で痛み止めのモルヒネが効いている間だけ痛みが少ない状態で、いわゆるモルヒネ漬けでした。

私が病室に入ると、父はベッドに胡座をかいて座り、私に語り始めました。

「・・・・・・・なっ。」
「・・・・・・・なっ。」

呂律が回らず、語尾の「なっ。」しか聞き取れませんでしたが、私には、父が相変わらずの、薄っぺらな正義論を語っていることが、
わかりました。

人は自分と向き合わなければ、たとえ最期の時を迎えようとしている、その時にも、自分の心の内の感情を感じる事も、それを吐露することも無いんだ、と思います。

それは、父がそう選んだ生き方であり、終わり方なのだから、そこに善悪も正誤もありません。

我が父のことでは、ありますが本当に辛い事が多かった人生だと、思います。

そんな人生の幕引きの時に、あの薄っぺらな正義論を息子に聞かせるのか、と思うと、悲しくもあり、可笑しくもあります。

父は自分と向き合うには、あまりにも辛い過去が有り過ぎたのかもしれません。

父自身が選んだのだから、自分と向き合うことをしなかった、「気づく」ことに背を向けた父の人生もアリです。


しかし私は、霧の中に居る様な、おぼろげな自分のまま、終焉を迎えたく無いと思っています。

父は父、私は私です。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾム








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