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「許し」に逃げず「恨み」に囚われず 望む人生への道標

人はこの世に生を受けるとき、誰しも幸せになりたいと願うことでしょう。

それは私達の基本姿勢、予めプログラムされた初期設定とも言えるのではないでしょうか。

ところが、幸せになることを目指すに相応しい健やかな環境に恵まれる人もいれば、

幸せになることを目指すには、あまりにも過酷な環境に身を置く人もいるのです。

健やかな環境とは、生まれ落ちてから数年の幼少早期に親(主たる養育者)から肯定的に受け入れられ、湧き上がる感情を素直に表現することが許される環境です。

泣きたければ泣き、はしゃぎたければはしゃぎます。

過酷な環境とは、幼少早期、自分の感情を素直に表現することを許されない環境です。

例えば、泣くと「泣くな!」と感情を否定される環境です。
はしゃげば「うるさい、騒ぐな!」です。

感情を否定されることが日常の環境で育つと、自分の感情は置いてけぼりにしたまま、親の顔色ばかりを覗う子供になります。

するとその子は自分の心の中に、確かな「自分」という意識が育ちません。

日頃、「泣くな!」と感情を押さえつけられてばかりいると、この子は泣きたい気持ちになったとき、自分の感情を良くないものと感じ、自分で否定するようになってしまいます。

泣きたくなるのは悪いことだ が、やがて泣きたくなる自分は悪い子だ と自分の存在自体を否定するようになってしまいます。

幼少期の、しかも極めて早い時期に自分の感情や存在を否定的に捕らえるクセがついてしまうと、その子はその後、自分の感情を自ら押さえ込み続ける、苦しい生き方にならざるを得なくなります。

そして、やがてその子は 生きづらい人 になります。

過酷な環境に身を置かざるを得なかった人が、生まれたときの幸せになることを目指す初期設定のままに生きることは至難の業です。

しかし、一旦は生きづらさを抱え、幸せを目指す道から外れてしまった人が、自ら幸せを目指したいという境地に辿り着くことは珍しくありません。

過酷な環境に呑まれ、幸せを目指す道から意図する事なく外れざるを得なかった人が、自ら幸せを目指す意志を持つに至ることは、尊いことだと心から思っています。


そうした時に陥りがちなことをお話しさせて下さい。

生きづらい人が、その生きづらさを手放そうとする時、その原因を正面から見据える必要があります。

そうする時、幼い日に親は自分に何をしたか、どんなことを言ったのか、誤魔化さずに見る必要があります。

この時、親も辛かった、とか、仕方がなかった、とか、許そうとする場合があります。

この「許し」は本物でしょうか。

向き合う時、心は揺らぎます。
揺らいで当然です。
これまで、封印していた幼少期の真実を掘り起こすのですから、揺れます。

本当の許しは、過去に押さえつけられた感情を味わい尽くした先にあります。

幼いあの日に押さえつけた 怒りも
ずっと見て見ぬふりをして歩いた 恨みも
フタをしたままだったネガティブな感情を味わい尽くした先に、許しや諦めが現れます。

ここでネガティブな感情から目を逸らす為に持ち出す「許し」は自分と向き合うタイミングを迎えていない、というサインです。

なぜなら、封印した感情をまた封印することは、幼少期の体験の焼き直しだからです。

ネガティブ感情を味わい尽くす前に、どうしても許したいのであれば、今はそうして一向に構わないと思います。
機が熟すのを待ちます。

生きづらさを手放すタイミングが訪れたら、その時、自分に、過去に、向き合えばいいと思います。

よく「許す」ことが良いこととされます。
しかし、幼い日に否定され続けた無念は、溶けて流れることが無かったから、わだかまって生きづらさになったのです。

幼い子供が親の顔色を覗い、自分の感情を捨てる苦しみは想像以上に大きなものです。

だから、怒る だから 恨む、
当然です。
その時の苦しみを認識したなら、何十年昔のことであろうと、怒り、恨みます。

生きづらい人が親を「許す」とは、
本当は親を許すのではなく、湧き上がる怒りや恨みを味わい尽くし、その怒りや恨みの感情を、そしてその感情を持つ自分自身を「許す」ことです。

その先に、許し や 諦め が自然に湧き上がります。

そうなって始めて、生きづらさを手放し、親への囚われを手放した状態になるのだと思います。

そうなった時の親への自分の感情は、
「ま、いいか」とあっけなく、しかし、確実に軽い心持ちであると思います。


親を許したい、自分のネガティブな感情に向き合いたくない、という感じ方ではなく、

幼い日の真実を知って、親への怒りと恨みに囚われる場合があります。

何年経っても、親への怒りと恨みを手放せなくなってしまう場合があります。

「許す」ことが違うなら「恨む」のは正解でしょうか。

これは現れ方が違うだけで、変わらず親に囚われ続けるカタチなのです。

冒頭でお話しした様に、私達の初期設定は 幸せを目指すこと だと思うんです。

幸せを目指すことはポジティブな方向性でしょう。
親への恨みに囚われ続けることはネガティブな世界に立ちつくすことだと言えます。

幸せを目指す時、フォーカスしているのは自分であり、自分の人生です。

親を恨む時、フォーカスしているのは、親であり、親の人生に取り込まれています。

親を恨むよりも、幼い日の望まざる出来事を恨むことが正解かも知れません。

望むと望まざるに関わらず、生きづらさを抱え、それを手放すことを願うとき、

向き合うことを避けて、「許し」に逃げ込まないことと、

親への囚われがカタチを変えた「恨み」に呑み込まれないこと、

この二つは大切だと思います。

逃げ込みたくなったとき、

呑み込まれそうになったとき、

道しるべはいつも、

なりたい幸せな自分

歩みたい幸せな自分の人生 

耐え難き を耐え、
生きづらさ を生きた人ならば、

必ず辿り着くと信じます。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。

NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾム





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