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無価値感を抱える人が親になるとき

心に重大な無価値感を抱える親は、子供の失敗を許せません。

同時に、

心に重大な無価値感を抱える親は、子供の成功を喜べません。

子供は失敗しても成功しても、物事がどう転んでも結局、親から責められます。


心に重大な無価値感を抱える親は、かつてその親から虐待されています。

本人に虐待されたという自覚は無いことが多いです。
自覚の有る無しに関わらず、親はその親から虐待され、
心は虐待された幼い日に凍りついて、その歩み、成長を止めてしまっているのです。

見た目は立派な大人でも、心は幼児のままです。

幼児は幼児を包みこんで愛情を注ぐ様なことは出来ません。

本当の愛情は心が成熟して初めて持てるもの、とも言えます。

心が幼いままの親が子供の失敗を許せないのは、
子供が何かに成功して、親の自分が羨まれたいし、誉められたいのです。
それなのに失敗する我が子は、自分が誉められることを邪魔する存在なのです。

そこに我が子が一生懸命がんばったプロセスは意味を持たず、
ただ失敗して、自分が羨まれ誉められる機会を潰した子供がいるのです。

だから失敗した我が子を、責め苛みます。


では、望み通り我が子が見事に成功を収めたらその親は満足するのでしょうか?

心が幼児のままの親は、今度は我が子を妬ましく思います。
嫉妬するのです。

誉められたいのは自分のことであり、子供のことではないのです。


そもそも心に重大な無価値感を抱える親は、普段から子供を、
自分が見たくない、触れたくない、感じたくない無価値感から目を逸らすために、
子供を利用しています。

子供の価値を貶めて自分の価値が上がったかのように感じることに中毒になっています。

だから子供は、
失敗しても、
成功しても、
何が無くても、
ずっと責められるのです。


しかし、その親は自分がいつもいつも子供を責めたてていることに気が付きません。

その子を蔑んで、貶めて、奪い尽くしているのに、与えていると思い込んでいます。

「思い込んでいる」と言いましたが、ここは非常に表現が難しいところで、

その親は本当は心の奥底では、自分の卑劣さ、卑怯さを知っています。

知っていながらそれでも自分が抱える無価値感から目を逸らすことが何よりも大事なのです。

無価値感から目を逸らすことが生きる目的になってしまっているのです。

そうなってしまうと、自分が抱える無価値感が見えそうになる度に、目を逸らすことがほぼオートマチックに行なわれます。

何かと言い逃れる人生になります。
責任から逃げる人生になります。

自分は無価値ではないと自分の中でいつも葛藤する人にならざるを得ません。

そして、この世の中で唯一、無抵抗な存在である幼い我が子は、

自分が抱える無価値感から目を逸らすための道具になってしまいます。


子供を道具として扱いながら、それでも尚、自分は愛情溢れる親だと信じ、

我が子を抱きしめて人生を共に歩いているつもりですが、
実は、親が子にしがみついて、おんぶされて、歩いているのはその子ひとりの足です。


例え、過酷な幼少期を過ごし、心が凍りつき、重大な無価値感を抱えても、

そのことに気づいたなら、我が子を道具にすることなく、愛情を注ぐことが出来る様になります。

しかし、無価値感から目を逸らしたい、という欲求は想像を遥かに越えて強力なのです。

気づいて痛みに耐えるか、
子供を道具にして目を逸らすか、

親になるということは、大きな分岐点なのだと思います。


よく
「子供から親が教えられる」
「子供と共に親が成長する」
といったことを耳にします。

その様な視点を持てたなら、子を道具にして己の無価値感から目を逸らすことなど、無いのだと思います。


人は天寿を全うするまで未完成な存在です。
人は若くして親になります。

最初から親だった人などなく、親も稚さを持つ人間です。

抱える無価値感の大小、多少に関わらず、

子供と共に成長する、という視点は、

親になるとき、

大切なことだと思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム





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