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「アイツのせいで…」の心理

「アイツのせいで嫌な思いをしている」
「アイツのせいで要らぬ苦労を背負い込んだ」

「アイツのせいだ!」

そんな思いになることは有りますよね。

相当、出来た人でも、きっと有るんだと思います。

生きていれば出来事は起こり続けます。

人生は次から次に降りかかる出来事に、都度意味づけを施し、
その意味づけによって湧き上がる感情を味わうことの連なりだと思っています。

出来事は、
自分が望む出来事も、
自分が望まない出来事も、起こります。
そこに私達の選択権はありません。

選択権が有るのは、
出来事が起きた後に、
それを、どう意味づけるか、
そして、どんな感情を味わうか、
についてです。

例えば、
歩行者用の信号が青信号で横断歩道を渡っているところに、
信号無視したバイクが、凄いスピードで突っ込んで来て、
こちらが気付いて立ち止まったために接触は免れたが、バイクはスピードを緩めることも無く、ギリギリの目の前を通過して行った。

この時、
「危ない!」と思った後に、
気が付いて良かった、無事だった、と安堵するか、
なんて運転をしているんだ、許せない!とバイクの運転者に対して憤慨するか、

要するに、
無事だったことに安堵するのは、ポジティブな感情を選択した場合で、
フォーカスは「自分」に合ってます。

なんて運転だ、許せない!と憤慨するのは、ネガティブな感情を選んだという事で、
その場合フォーカスは「バイクの運転者」です。

事無きを得てラッキーと捉えるか、
こんな目に合わされてアンラッキーと捉えるか、

意味づけによって、
ラッキーな世界に身を置くことも、
アンラッキーな世界に身を置くことも、
出来るということになります。

挙げた例え話は、一瞬のことですが、
この一瞬、「今」の連なりが、一生を創ると考えます。

ということは、私達の幸福な「今」は、起きる出来事では無く、
私達自身が施し選ぶ、意味づけと感情によってもたらされ、

その「今」の連なりである人生をも、私達自身が出来事を、どう意味づけ、どの感情を選択するか、によって造り出されるのだ、と思っています。


覚えておきたいのが、
意味づけるのも、
感情を選択するのも、
自分 であることです。

自分の「今」、
それに連なる自分の人生の主人公は自分自身です。

いつも主体は自分です。


例え話に戻って、
無事で安堵した時のフォーカスは自分に当たっていて、
自分の「今」、自分の人生の一瞬です。

バイクの運転者に憤慨した時、フォーカスはバイクの運転者、つまり 他者 です。

この場合、
他者の「今」であり、人生の一瞬を他者に明け渡した状態です。

この意味づけが、癖づくと、「今」が連なる人生を他者に容易に明け渡してしまうことになります。


あの人が悪い、
この人が嫌い、
あの人にこんな事をされた、
この人が許せない、

全部、主体は他者です。

私達は起きる出来事も、
他者の心もコントロールすることは出来ません。
唯一コントロール下にあるのは、自分の心だけです。

その時々で、他者に主体が移る心の在り方は、
言い換えると、心を他者に明け渡す在り方です。
とても不安定なのです。

出来事に呑まれ、
他者に振り回され、
自分の人生を生きる実感がボヤけます。


冒頭で触れた様に、

望まない出来事が身に降りかかり、
その原因となる他者が存在するとき、

誰もが、
「アイツのせいだ!」と感じる場合が大半だと思います。

しかし、ここで他者に移ったフォーカスを自分に戻すことを心がけることで、
「今」を取り戻す事が出来易くなります。

いつも「生きづらさ」についてお話しすることが多く、

心の根本、根っこに働きかける内容が常ですが、

出来事、意味づけ、感情、の、どちらかと言えば、メンタルコントロールに近い部分からのアプローチを重ねることで、

より深い根っこに繋がることも多いのではないか、と思っています。

そして、
自分が「アイツのせいで…」という思考に支配されているか否かは、

自分自身で発見し易い入口であると共に、

取り組み易く、有用性の高い事柄だと思います。

他者に心を明け渡してはいないか、

要チェックだと思います。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。




伴走者ノゾム


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