「心のこと」を伝えるとき言葉は大切だが限界もある
「心のこと」は、お伝えするのが難しいと常々思っています。
心は目で見ることも、手で触れることも出来ません。
私達はこの物質世界に生きていますが、心は私達が暮らすこの世界のコミュニケーション手段である「言葉」だけでは表すことが難しいものです。
「言葉」は大切ですが、こと「心のこと」は最終的には「感じる」ことに行き着くのだと思います。
しかし、この見えない、触れない、カタチの無い、心というものを人に伝えようとする時、その手段は「言葉」にならざるを得ません。
もしも、テレパシーが使えるものならば、「心のこと」を誰もが知ることとなって、
誤解や曲解を招くことも無いでしょう。
しかし、私達は心で感じたことをそのまま相手の心に届ける手段を持ちません。
だから、一旦「言葉」に落とす訳です。
「言葉」にして相手に届けます。
ところが、「心のこと」は、いくら上手に「言葉」を操る人であっても、
全てを漏れなく正確に伝えることは出来ない様に思います。
なぜなら心は、最終的には感じるものであり、感じることの全てを言葉に落とし込むことは出来ないからです。
心を伝える先達たちは、大いに苦労されています。
時に例え話を使い、方便を使い、もともと全てを言葉に落とし込むことが不可能な「心のこと」を、
言葉にして届ける試みを大昔から続けて来たのです。
どうしてそうやって伝えなければならないのか。
人が「心のこと」で悩むのは、大昔から現在に至るまで変わらないからです。
「心のこと」で悩むことが大昔から不変なのであれば、
「心のこと」を伝えようとすること自体が不毛なことにも思えます。
しかし、「心のこと」で悩むのが、どうやら私達人間の役目らしいのです。
花は咲くことが役目なように、
鳥は飛ぶことが役目なように、
獣は狩ることが役目なように、
人は「心のこと」で悩むのが、どうやら役目なようなのです。
あの人は悩みが無さそうでいいなぁ、
と傍目には見える人にも悩みはあります。
今が人生の絶頂期で、やること為すこと上手く行っている人にも、悩んだ過去はあるでしょうし、これからも悩みを抱える時はあることでしょう。
花が咲くように、
鳥が飛ぶように、
獣が狩るように、
人は悩みます。
「心のこと」で悩むのが人の役目であるならば、
悩んだ時にはどうすれば良いのでしょうか。
その時に、不毛とも思えた、不完全ながら伝えられた「心のこと」が生きる助けになります。
その人は、伝えられた「心のこと」を、自分なりの解釈で理解しようとします。
理解は「思考」の仕事です。
「感じる」こととは違った伝わり方ですが、入口はここにあると考えます。
知ることが全てではありませんが、知ることが全ての入口です。
知ることを重ねて、理解が深くなります。
深くなった理解はいつか、思考を突き抜け心に届きます。
伝えられた「心のこと」を心で感じます。
心で感じる感覚を覚えたら、もっと感じたくなります。
心で感じることは、自分と向き合うことです。
自分と向き合うことが出来た人は、悩みや苦しみから解放される術を知ることとなります。
人が悩む役目を負って存在するにも関わらず、
悩みや苦しみから解放されます。
悩みや苦しみを運んで来る出来事は、生きる限り起こり続けます。
しかし、心で感じることが出来、
自分と向き合うことが出来る人は、
悩みや苦しみから解放される術を知っています。
人が悩む役目を負いながら、
豊かに生きる方法はここにあると思うのです。
「心のこと」は全てを言葉に落とし込むことは難しく、
そんな「心のこと」を伝えることを、大昔から今に至るまで飽くこと無く繰り返すのは、
一見不毛であるかに見えますが、
受け取る人が理解を深め、思考を貫いて「感じる」ことが出来たとき、
その人は自分と向き合い、悩みや苦しみから解放される術を手にします。
言葉は大切です。
入口は言葉です。
しかし、
言葉には限界があります。
心には、カタチがありません。
見ることも、触れることも出来ません。
だから、「心のこと」を伝える人は、大昔から飽くこと無く、繰り返し伝えます。
伝える人は
言葉が大切なことも、
言葉に限界があることも知っています。
言葉を伝えたい訳ではありません。
受け取る人が望むならば、
解放の道標を指し示したいのです。
後は、受け取る人が、
知ることを入口に、
思考で理解し、
理解を重ねて、思考を貫き、
感じて、自分と向き合って欲しいのです。
人は悩むことを役目としているのなら、
自分と向き合うことまでも役目なのではないか、と思うのです。
自分と向き合うことが入口で、
自分と向き合うことが全てだと思っています。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム
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