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いわゆる「毒親」という言葉に思うこと 解放への階段

「毒親」という言葉、
今では心にまつわる事に特に関心が無い人々にまで認知されたのではないかと思います。

もとを辿れば、1999年に出版された書籍
スーザン・フォワード著「毒になる親」から派生した言葉の様です。

この本が商業的に成功を収め、いつしか「毒親」なる言葉はひとり歩きして、誰もが聞き覚えがあるであろう言葉になりました。

そもそも、本が売れたということは、親子の関係性に問題もしくは疑いを持つ人が沢山居たということでしょう。

これまで埋もれがちだった、生きづらさの原因は親(養育者)との関係性に有るということを広く呼びかけたと言う意味では意義ある事だと想います。

その反面、問題も有ります。

「毒親」と言うワードがインパクトもあり、キャッチーでもあったため、災いをもたらす敵、といった捕らえ方をされる場合が多い様に思います。

これまで触れることが、はばかられる親子の関係性に触れる敷居が低くなったと言う事は良い面ですが、

ただでも心の問題は複雑で、一人ひとり違うものであり、簡単に白黒で片付けられない事柄です。

確かに、子供は生まれ落ちる時、親も環境も選ぶことは出来ません。

しかし、そういった親のもとに生まれ、そういった環境に育った人の何が問題なのかと言うと、

その人が抱えた「生きづらさ」です。

その人が「生きづらさ」を手放そうと思う時、対峙するのは「原因」です。
「犯人」では無いのです。

言葉がひとり歩きしたことで、悪いのは親だと言うことを結論にする向きが有るように思ってます。

生きづらさを手放そうとする時、段階があります。

先ず、自分は生きづらいのか、そうでは無いのか、と言うことを知る段階

生きづらい人は生まれた時から、過酷な環境しか知らないので過酷な事が日常、苦しい事が当たり前です。
だから、最初に 自分は生きづらい ということを知る事から始まります。

自分が生きづらいと認識したら、二番目の段階は、生きづらさの原因はどこにあるのかを探す段階です。

余程のレアケースを除いては、原因は幼少期の親子関係にあると言っていいと思います。

最初の段階の生きづらさを認めても尚、自分の幼少期に問題は無い、むしろ特別に愛情を注がれた、と思い込んでいる場合が多いのです。

生きづらさの原因は幼少期の親子関係にあると認識したら、三番目の段階は親への囚われを手放す段階です。

自分は愛を注がれたと思い込んでいればいるほど、そうではなかったと判ったとき、親への怒り、恨み、これまでの人生は何だったのか、という哀しみや寂しさ、いろんな感情が溢れ出します。

地面の中に吸い込まれる様な負の感覚に呑まれます。

しかし、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで生きた 生きづらい人 は、この負の感情の波にさらわれることはありません。
ひとしきり、怒り、恨み、哀しんだなら、親への囚われから解放されます。


「毒親」という言葉が広まった事によって、二番目の段階が、

生きづらさの原因はどこにあるのか
である筈が、

いつの間にか
生きづらさをもたらした犯人は誰なのか
に変わり、

あたかもその犯人を探すことがゴールであるかのように、生きづらさを抱えたまま、更に親への怒り、恨みに囚われている人が少なく無い様に思います。

中には、自分は生きづらさを手放した、と思っていながら、親を「毒親」と言い、怒りや恨みに囚われ続ける場合もあります。

二番目の生きづらさの原因はどこにあるのかが、生きづらさをもたらした犯人は誰なのかに変化して、そこにとどまっている人は沢山います。

それは、幼い時に親が自分の生きづらさから生じる怒りや苛立ちを抵抗出来ない子供にぶつけたように、

今度は自分が生きづらさはそのままに、それから目を逸らす為に親に怒りや恨みをぶつけているのです。

生きづらさは幼い頃にため込まざるを得なかった怒り、恨み、哀しみ、寂しさなどのネガティブな感情です。

生きづらさをもたらした犯人は誰なのかをゴールにするのではなく、
生きづらさの原因はどこにあるのかをはっきりと認識したならば、
その感情をひとしきり包み隠さず味わい尽くす事が肝要だと考えます。

そうした時、生きづらさから目を逸らす為に子供に怒りをぶつけた親を乗り越えた自分に本当の自信を感じられる様になります。

心の中に怒りや恨みの感情の残骸は残っても、そんな幼少期があって、苦しんだ生きづらい日々があって、今自信を手にした自分が居ると納得出来た時、

親への囚われから解放され、生きづらさは跡形も無く消え去ります。

手放す過程で、いっとき、毒親と呼ぶこともあるでしょう。
しかし、そこに留まってしまっては、心は親に囚われたまま目を逸らすことになります。

機能不全家庭に育った生きづらい人が、その生きづらさを手放す過程は、

親への囚われを乗り越えることだと言えるのです。

幼少期は親が世界の全てです。

あまりにも無力でした。

しかし、成長した今の自分は無力でしょうか?

事実として無力では無いならば、無力な幼少期の恨みに囚われて生きるのは、親に囚われ、過去にしばられ、今の自分を無いがしろにすることです。

願わくば、そこに留まること無く、
今のあなたで歩いて頂きたい、
そう思います。

読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾム

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