「願う」のではなく「決めてしまう」
この世に生を受けた瞬間から、生命が燃え尽きるまでのカウントダウンが始まります。
確実な決まりごとは、ほぼ無いですが、生命には終わりが必ず訪れるということだけは、動かし難い決まりごと、と言えます。
人に限らず、動物も植物も生命ある者は必ず死を迎え、形あるものはいつか壊れます。
生命については様々な捉え方があります。
肉体は入れ物であって、生命は滅びることは無い、死は生命の終焉では無い、との捉え方があるのも承知していますし、
私自身、そんな気がしていますが、今回はこの物質世界で肉体が滅ぶ時を生命の終焉と捉えたいと思います。
そもそも、私達は何のために生まれて来たのでしょうか。
今現在の私の思うところは、
限りある生命を存分に味わうために生まれ、生きるのではないか、と思っています。
生き方に善悪、正誤、優劣は無く、この様に生きなくてはならない、といったひな型は存在せず、
百人居れば百通り、千人居れば千通りの生き方が有り、その全てが正解なのだと考えます。
ならば何故いつも「生きづらさ」を手放す話しをしているのか、と言われる向きも有ろうかと思います。
文中で、
『「生きづらさ」に気がついて、その「生きづらさ」を手放すことを願うなら、自分と向き合い、決断することが必要』
とお話ししています。
「生きづらさ」に気がつかないまま、生きる人がいます。
その人にとっては気がつかない人生が正解の人生だと思います。
「生きづらさ」に気がついて尚、「生きづらさ」を選ぶ方もいます。
それは、その人にとっての正解だと思っています。
「生きづらさ」に気がついて、手放すことを願う人がいます。
その人にとっては手放すことが正解なのだと思うのです。
私達はこの世に生を受けた時、絶望してはいません。
「生きづらさ」を抱えて生まれて来る赤ん坊は、一人もいないのです。
赤ん坊は、光りを放つ生命の玉です。
生きる気満々です。
その生きる気に満ちた生命の玉が、望まない環境に育ち、否定されたり、拒絶されたりするうちに、曇ります。
光りを放つことが出来なくなります。
その状態が「生きづらさ」を抱えた状態です。
生まれた時は、光りを放っています。
生きる気満々がデフォルトです。
それが自然な在り方と言えます。
望まない環境下で光りを失った状態は、自然とは言えません。
不自然な在り方です。
しかし、
自然な在り方が正解で、不自然な在り方が不正解と言うことではありません。
つまり、
望まない環境に身を置かざるを得ず、光りを失い、「生きづらさ」を抱えたことは、不自然な在り方ではあるけれども、
決して不正解では無い、と思っています。
そして、
「生きづらさ」に気がつかない人生も、不自然な在り方ですが、なにも悪くありません。
「生きづらさ」に気がついて尚、「生きづらさ」を抱えることを選ぶのも、不自然ですが、不正解では無いのです。
「生きづらさ」に気がついて、手放そうと願うのは、自然の理に沿った、自然な心の在り方です。
だからと言って、その願いを持ったから正解、願いを持たなかったから不正解ということでは無く、
ただ、自然な方向を選んだ、ということだと思います。
自然な在り方を選ぶのも、
不自然な在り方を選ぶのも、
そこに、善悪、正誤、優劣は無い、と考えます。
自然な在り方を選んだ人は、ポジティブな世界を、
不自然な在り方を選んだ人は、ネガティブな世界を、
銘々が、限りある生命を途して、存分に味わっているのです。
私は否定され、拒絶される環境に育って、光りを放つことを忘れ、ネガティブな世界を生きました。
「生きづらさ」を引きずって長いこと歩いた末に、
腹の底から、もう飽き飽きした、と思いました。
ネガティブを存分に味わって、もう「生きづらさ」を手放そう、と思ったのです。
当時は「生きづらさ」に呑まれ、翻弄されるばかりだった様に思っていましたが、
渦に巻き込まれた様な状態の中で、実はネガティブを味わっていたんだと今は感じます。
だから飽き飽きした私はポジティブな世界を選択したんだ、と思っています。
自然な在り方を選ぼうと、
不自然な在り方を選ぼうと、
ポジティブを選択しても、
ネガティブを選択しても、
生命を存分に味わっていることに変わりはありません。
しかし、
ポジティブもネガティブも、自然も不自然も体験した上で思うのは、
ポジティブな世界に身を置くと、ネガティブな世界に戻りたいとは思いませんが、
ネガティブな世界に身を置いていた時は、常にそこから逃れたいと願っていました。
ネガティブを選択することは不正解では無いのですが、不自然な在り方です。
不自然な姿勢は負荷がかかります。
やはり、苦しいのです。
その苦しさから逃れたい、と常に願っていました。
願っても叶いません。
必要なのは、「決断」です。
「生きづらさ」を手放す、と決めるのです。
どう選ぼうと、何を選択しようと、
不正解は無いですし、
その世界を味わい尽くすことも出来ます。
全て自由なのです。
そして、
「生きづらさ」を手放すも手放さない、すらも自由です。
ネガティブに飽きて、「生きづらさ」を手放すことを願いながら、決断することが出来ない人は沢山います。
だから、
『「生きづらさ」に気がついて、その「生きづらさ」を手放すことを願うなら、自分と向き合い、決断することが必要』
とお伝えしています。
何を選択するかに正誤はありません。
方向は自分で選びます。
その方向に進む時、
「願う」のでは無く、「決めてしまう」ことが、どうしても必要です。
「生きづらさ」を手放すという方向を向いた人に、
「願うこと」が必要なのでは無く、
必要なのは、手放すと「決めてしまう」こと、
つまり「決断」なのだと、
お伝えしたいのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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