![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/111045514/rectangle_large_type_2_d97002d7e14d68c55555d359f2e12bae.png?width=1200)
立ちすくむムリョク、佇むチカラ
生きていく上で、様々なチカラを求められます。
危険を察知するチカラ、
他人と協力するチカラ、
物事を深く考察するチカラ、
時として、自分や大切な何かを守る為に戦うチカラを求められる事が有るかも知れません。
そういった持てるチカラを試される局面に備えて、普段は極力リラックスする事も、リラックスするチカラ、とも言えます。
チカラを発揮するには、心の中に確かな「自分」という意識が育っているか、が大きく関わります。
チカラを発揮する時には、「腹を括る」感覚が必要です。
腹を括るのは、ナニが、ダレが括るのか?
それは、心の中の確かな「自分」という意識が「腹を括る」のです。
だから、心の中に「自分」が無い人は、窮地に立たされた時にパニック状態に陥る人と言えるでしょう。
窮地に立った時、「自分」が有るフリは通用しません。
私は、機能不全家庭に育ち、「自分」という存在を否定され続けて育つ中で、
他人の前では、いかにも、しっかりとした「自分」が有るかの様なフリをする術を身につけました。
両親は「生きづらさ」を抱える人達で、自分の「生きづらさ」から目を逸らす事に必死で子供を愛する余裕など無く、逆に子供を嘲る事でその場限りの有価値を感じる事に中毒になってしまっていました。
両親は子供を嘲り、子供は嘲られる存在だと思い込む環境では、
心の中に、確かな「自分」という意識は育ちません。
生きる為に熟練した、あたかも「自分」が有るかの様なフリは、本当の窮地に立った時、脆くも崩れ去ります。
覚悟を決めようにも、覚悟を決める「自分」が無く、
腹を括ろうとしても、腹を括るべき、「自分」が無いのです。
すると、普段はあたかも「自分」が有るかの様なフリをしていた、その人は、放心します。
その場になすすべなく立ちすくみます。
窮地に立たされた時、「自分」が有る人は覚悟を決めます。
腹を括ります。
万策尽きて、もはやこれまで、という状況に置かれて尚、立ちすくむことはありません。
そこには覚悟を決めた「自分」が、
腹を括った「自分」が居て、
佇むのです。
「自分」が無く、立ちすくむ人と、
「自分」があって、佇む人は、
傍目には、同じ様に見えるかも知れませんが、
「自分」が無く立ちすくむ人は、「自分」が無いのですから、当然「自分」の人生を生きていません。
「自分」があって佇む人は、万策尽きて尚、「自分」の人生を生きているのです。
「自分」が有ろうと、無かろうと、生きる限り、「出来事」は誰の身の上にも、起こり続けます。
そして、その起きる「出来事」に私達は、その都度、「意味づけ」をして、
起きた「出来事」と施した「意味づけ」によって湧き出した「感情」を選択し、見る「世界」を、生きる「世界」を創造します。
「自分」が有る人は、選択の時点で、「自分」が選択した満足があります。
「自分」が無い人は、いったい誰が選択権を行使するのでしょうか?
自分が無い人は、本来、心の中の「自分」が居るべき場所に、自分ではない「何者か」が居座っています。
本人は自分が選択し決定した様に思っていますが、「自分」が居るべき場所に自分は居ません。
居座った「何者か」が選択するのです。
だから、「自分」が無い人は、選択する時点でスッキリしません。
満足とは程遠く、自分の人生がまるで他人事に感じられます。
もはや、自分の人生を心に居座る「何者か」に明け渡しているのです。
だから、覚悟は決まりません。
だから、腹は括れません。
だから、窮地に立ちすくみます。
だから、人生を楽しめません。
いつもお話しさせて頂いている、「生きづらさ」を手放す、と言う事と、
「自分」を取り戻す、という事は、
同じ事と言えます。
自分が主役の自分の人生は、望む出来事があっても、望まない出来事が起きても、
満足感に満ちています。
望む人生を歩むとは、満足して生きることではないか、と思うのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?