無名な僕が出版社に企画を持ち込み、出版するまでに起きた物語(1)~僕の人生はこのままでいいのだろうか~
想定外の出来事
人生で初めて「時間がない」と切実に感じた。
それは仕事の納期でも、勉強不足のまま迎える試験前日でもなかった。
昔から勉強を教わっている先生が、もう間もなく死ぬかもしれない。
そんな予感が、心を覆ったのだ。
先生は数年前から腰痛に苦しんでいた。
先生は治療のために様々な病院で検査・手術を受け、整体などで改善を試みたが、症状はむしろ年々悪化。朝目覚めると同時に襲ってくる絶え間ない痛みは、もはや深刻な段階に達していた。
その痛みを和らげることができた唯一の薬も、先生の体に合っているとは言いがたかった。
先生のところに訪れた夏の暑い日である。75歳の先生の顔の左側には、小学生が遊んでできたかのような痛々しいかさぶたができていた。薬の影響で意識が朦朧として、前のめりに転んでしまったという。
そういった事もあってか、2021年11月、先生は突然驚くべきことを僕に告げた。
「千葉県の奥の方に墓を買った。墓石を立てるのではなく、地面に敷くような簡素なものだ」
その言葉を聞いた瞬間、これほど「時間」が迫ってくると感じたことはなかった。
このままだと後悔する——そう思い、焦りが募った。
この頃、4年間の間、僕は本を執筆するため2週間に1回は先生のもとを訪れ、書いた原稿を見てもらっていたのだった。
本が書かれることになったきっかけ
2017年の春先、先生は哲学者ヘーゲルの『精神現象学』の注解する講座を再開すると言ったメールがきた。
先生は腰の調子が悪く講座を一時中断していたのだ。
つまり、休養であった。同時にそれは、苦渋の決断だった。
ヘーゲルの『精神現象学』の注解は、先生が若いときからやろうと決めていたことだったからだ。
でも、痛みでそれが頓挫してしまったのだ。
しかし、休養のおかげで回復の兆しが見えた。先生はそう考えたらしい。だから『ヘーゲルの精神現象学註解を再会にしたようだった。
僕はその講座に久しぶりに参加することにした。先生と再会するのはおよそ2年ぶりだったと思う。前回のヘーゲルの注解を最後に会っていなかった。
先生の話は昔と同じく、難解であったが面白かった。しっかりと理解できたなんて言えないけど、先生の以前よりかは元気になった姿を見て僕は安心した。
その講座の最中、雑談の中で先生が思いがけないことを口にした。
「少し前から、小学生を教えはじめた」
その言葉に、参加者たちは一斉に驚いた。
先生はこれまで大学生や社会人を中心に教えていた。ただ、中高生の面倒を見ることはあっても、小学生は教えないと言っていたからだ。
話を聞くと、数年前に20年以上前に教えていた生徒が突然書斎を訪れ、自分の子供の勉強を見てくれないかと依頼してきたらしい。
その母親は、都心の中学受験塾の過熱した競争に自分の子どもを巻き込みたくなかったため、先生に相談に来たようだった。
こういった突然の相談は先生にとって珍しくなかった。いつものように、頼られたら断らない性格もあり、いつの間にか小学生に対して教え始めることになったようだ。
そんな話を聞いた講座の参加者の一人が、
「小学生に何を教えているんですか?」
と質問したいことから、話がどんどん盛り上がっていった。
どうやら詳しく話を聞いてみると、普通の授業をやっていない。
工作をしたりする。あるいは、漫画を使って歴史を教える。おしゃべりを中心に授業を進めている。それはまるで大人が参加する読書会だ。
大人が受けても内容は興味を引くものだった。
「そんなに面白いことをしているなら、文章にして本にしよう」
と話を聞いて盛り上がった誰かが、そう提案した。
その場にいた複数人で共同執筆をすることが決まった。僕もその一員となった。もっとも、先生以外に本を書いた経験などなかったけれど。その場のノリで決まったのだ。
共同執筆の難しさ
しかし、当然のごとく本にする作業は、想像以上に難航した。
経験のないことをするのは難しい。共同で書くことはさらに難しい。
それぞれが経験者であれば先が見えるのだが、全員が素人ということもあり、足並みは揃わなかった。しかも、それぞれに仕事や生活があり、結婚や転職、転勤なども重なった。
最終的に一番時間の自由がきいた個人事業主の僕と、書くことはせずに出来上がったものを読んで感想言う事に徹していたW君だけが、このプロジェクトに残ることになった。
つまり、実際に執筆するのは僕一人になってしまったのだ。
それから2週間1回、先生と僕とW君の3人で集まっては、僕が文章を書いたものを読んで、「これでいい」、「これじゃない」と議論を重ねたり、「先生、これってどう思います?」と僕が様々な質問を繰り返した。
「もっと他に良いテーマがあるのではないか」と僕自身が迷走することも多く、進んでは行き詰まるような状況が、2018年の冬頃にはすっかり定番になっていた。
当初の執筆方針
本を書くための大まかな方針は決まっていた。
一つは、「先生がやっていること」を書くこと、
もう一つは「多くの人々が求める内容」にすること、というものだった。
最初に取り掛かったのは、先生が小学生に行っている授業の様子をそのまま文章にすることだった。
丸い地球を平面の地図に変換する方法を紙風船を使って学ぶ授業
身の回りにある洋服の素材、例えば羊毛や綿花などを実際に触れ、それがどのようにして服になるのかを学ぶ授業
教科書に載っている詩に使われた擬態語や擬音語について、話し合いながら理解を深める授業
こうした内容を文章に書き起こした。僕自身も小学生の授業に参加し、その場の空気を確かめることもした。
一方で、世の中で売れている本を片っ端から調べた。日本で数十年にわたって売れ続けている本や書店に並んでいる本を、手当たり次第に読んでみた。
すると、いくつかの傾向が見えてきた。
『夢をかなえるゾウ』や『嫌われる勇気』のような自己啓発本は長年にわたって売れ続けている。
中学受験を控えた親は、学習関連の本を熱心に読む傾向がある。
文章の書き方を学びたいというニーズは戦前から存在している。
初学者には物語形式の方が手に取りやすい。 などなど
こうした情報をもとに、さまざまな企画を考案した。
『ビジネスで使える本の要約術』、『一生ためになる本の読み方』、『成績が上がる要約の仕方』、『誰にでもできる正しい思考法』、『大学受験まで困らない小学生向け国語の成績の上げ方』など、いくつもの企画を立て、その一部を書いた。
しかし、それらの原稿を先生やW君に見せると、「それではない」と言われたり、「それって読者います?」といった反応が多かった。僕自身も書きながら、「これは違うな」と思い直すことがよくあった。
問題は読者層が明確でなく、企画がどれもぼんやりしていたことだった。
やがて先生は、「もう、ナメ書くのはやめろ。これでおしまいだ」と僕の名前を言って、最終宣告のように告げてくることもあった。
(それでも僕は何くわぬ顔で、2週間後には新しい企画を持っていったのだが……)
結局、自分事ではなかった
しかし、それは当たり前のことであった。
この時期に僕が書いていたものは、どれも自分の興味とはかけ離れた内容だった。
「世の中ではこういった文章がよく売れている」
「世の中ではこういった企画が部数が売れている」
そういった発想で書いた文章は、何一つ伝えたいものが含まれていなかった。
先生やW君の反応が厳しいのも当たり前であった。
正直に言えば、この頃の僕には責任感や使命感はなかった。
ただ漠然とした義務感と惰性で書いていただけだった。
このプロジェクトが始まったのも自分からではない。
立ち上げた企画に対して特に強い関心を持っていたわけでもなかった。
30歳を超えているのに、いまさら小学生の受験のことを考える必要性なんか、これっぽちもなかった。
いつしか「終わりがないなぁ」と感じ、「そのうち仕事が忙しくなって、それを言い訳にして書くのをあきらめることになるだろう」と、どこか想像していた。
しかし、そうした自分の甘さを突きつけられることになる。
「僕の人生はこのままでいいのだろうか」
先生が「自分の墓を準備した」と言った時、僕は逃げ腰の自分を先生に見せたくないと心の底から思ってしまったのだ。
先生に宣言する
先生が墓を買ったと話してから2週間後。僕は先生にこう宣言した。
「このままだと本として完成をさせることができない。これまでは『先生の伝えられること』と『世の中で受ける』ことを狙って書いていた。それをやめます。『僕が先生から知りたいと思っていたこと』と『世の中で受けること』を書くことにします。そして、それを物語の形で書くことにします」
この宣言は大きな転換点だった。
それまでの僕は、まるで第3者の立場から本を書こうとしていた。自分の理解やスタンスを変えるきもなかった。自分ができることを探していただけだった。黒子に徹しようとした。自分を守る鎧を着たまま執筆していた。
この宣言は、僕自身の理解が試される本を書くことを意味していた。それはとても怖いことだった。
同時に、先生の言葉をそのまま伝えるのではなく、僕自身がどう理解し、どう感じたかを書くという決意でもあった。
難解な書物との一年半の格闘
その時から、僕は人生で初めて真剣に本を読むようになる。
最初に真剣に読んだのは、先生が予備校の教師時代に書いた受験参考書『英語論文講義』だった。
この本は大学受験の参考書でありながら、構造主義で有名な人類学者レヴィ=ストロースや文化人類学者の川田順造、イギリスの芸術批評家ラスキンなど、そうそうたる人物の文章が取り上げられていた。
その中には、次のような一節があった。
正直にいうと、読んでいてよく分からなかった。だから、先生に何度もしつこく質問した。何度も何度もしつこく聞いた。そうすると、先生が授業のために書いた原稿のデータをすべて唐突に託してくれた。
その分量は凄まじかった。A4のページで1万ページ以上あり、一生かかっても読み切れないような分量であった。
ただ、その中で一つまとまったものがあった。
それは『近代回顧』というタイトルで、予備校のテキストとしても使われていたものだ。中世後期ヨーロッパから20世紀までの思想家の文章を取り上げ、欧米の学問の成り立ちについて書かれていた。
僕はそのテキストを基本としながら、そこから派生する歴史上のさまざまな人物の本を読み進めた。
ホイジンガ、デカルト、パスカル、ナイチンゲール、芥川龍之介、夏目漱石、福沢諭吉、ブルーム、ヘーゲル、プラトン、ルター、エリクソン、竹内俊晴、丸山薫、伊藤静雄、魯迅、ユング、ニーチェ、ドラッカー等々。
これらの本は非常に難解だった。
どんなに頑張っても1時間で20ページ読めれば良い方。下手をすれば1時間で4ページしか進まない。それが普通であった。3時間も読んでいると、いつの間にか呼吸が浅くなってしまう。そんな本ばかりであった。
それでも、こうした本を読み、理解した内容を文章にまとめた。分からない箇所があれば2週間に1度先生に質問。その話を聞いた上で再び自分の言葉で文章を書き直す。
この作業を1年半以上続けた。結果、ようやく本として形になる分量の文章が書き上がった。
しかし、その時点で一つの良いことと、大きな問題が見えてきた。
良いことは、先生の体調が最悪の時期に比べて少し回復していたことだ。
そして、大きな問題は、書き上げた原稿をどうやって出版するか、全く見当がつかないことだった。
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以下先生の代表著作: