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大丈夫だから、もう少し揺さぶって欲しい。

穏やかではある。日々、ある程度は。

コロナ禍が本格化した1年前の今頃は、私自身が呼吸器疾患にかかったこともあり、感染防止に逆張りするような人間の行動に明らかな怒りを覚えたり、出張や飲み会はおろか外食自体を絶ってひたすら行動を律する状況に歯ぎしりする思いが絶えなかった。

しかし、コロナ禍で二度目の桜が咲いた頃からはそういえば、誰が会食したとかパーティーしたとか言う話を耳にしても、馬鹿は死んでも何とやらの諦めの境地に達したのか、特段の感情を抱かなくなった。言って聞くような人種ではないし、付ける薬も無いし、そういう相手には自分のリソースを割くだけ無駄なのだ、と思いながら。

そうやって自分を俯瞰した時、あらゆる感情の起伏が平坦化していることにも気付く。怒りや悔しさだけじゃなく、楽しさや嬉しさのスペクトルにも大小がない。それまでは「世界」と言えた自分の周りが、ものすごく小さな小さな「箱」になっているようで、愕然となる。

保守な私には、生きやすい流れなのかもしれない。外からの刺激が少ないことは面白味が減るけれど、傷つくリスクも減る。しかし、それを良しとして自分の生きる軸とすることに、80年90年の人生は長すぎな気がする。進んでアドベンチャーする気質では決して無いけれど、他人という刺激から隔絶された今の「箱」はつまらなさが過ぎるし、人生の後半ずっとこのまま感情を殺され続けるのかと思うと、ぞっとする。人も景色も、液晶モニタの画素やスピーカーの振動板を通してでは事足りないと思い知らされた、この1年。

穏やかではある。

でも次の日々はふたたびもう少し、感情を揺さぶってきて欲しいと願う。それが自分にネガティブな影響を与えるものであっても、一種の懐かしさのようなものと共に消化できると思うから。

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