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『三島由紀夫論』、もう一度おれに三島のほうを向かせてくれ(祈り あるいは『仮面の告白』読書感想文)

これは由々しき事態です。

去る4月下旬、芥川賞作家の平野啓一郎氏が『三島由紀夫論』(新潮社)を上梓した。氏が長年の使命としていたもの。宣伝文句には「執筆23年」とある。
いつもの本屋で取り置きを頼んで、発売日の翌日に入手した。
でもまだ読みかかっていない。
理由はミルフィーユ。
ミルフィーユよろしく幾層にも重なる理由があるということです。

ひとつには、ボリュームがすごいから。
流石に23年の終着のひとつの到達点。600頁超の単行本はもちろん物質的に重いけれど、実体以上の重量感と存在感だ。これは明らかに携行向きではない。鞄のキャパも精神的なキャパも求められる。

ふたつには、積読が終わらんから。
自主開催読書会の5月の課題図書もあるし、GWの帰省でなぜかまた実家から5冊くらい持ってきちゃったし(すべてが未読本ではないけど)。

そう。読書会。
読書会。
(あ、ミルフィーユ状の未着手理由の羅列は以上になります。みっつめは、ひとつめとこれから述べる読書感想に端を発する情緒の掛け合わせ。これが厄介)
何度か書いているけど、最近、友人と2人で読書会じみたものをやっている。月例化したのは今年に入ってからだと思う。遠野遥氏の『浮遊』が発売されたタイミングで読んで、友人に貸して、その時から。
今後の便宜のために、この友人のことはKさんと呼ぶことにしよう。
Kさんとは10歳近く年が離れている。例えば先の遠野遥氏でいえば、彼女は遠野氏のお父上であるBUCK-TICKの櫻井敦司氏をリアルタイムで見ている。彼女にとって遠野氏は第一に「あっちゃんの息子」。
一方の私は、遠野氏と同い年、なんなら同窓生で、同じ大教室で必修を受けていたっぽい(もちろん面識はない。)。私にとっては櫻井敦司氏が「遠野氏の父親」。
この世代感の違いが大きいのか何なのか(家庭環境とか諸々を含めた経験の違いと、根本的な性格の違いもあるだろう)、遠野氏の作品ひいては遠野氏そのものに対するイメージも違って、それがとても面白いと思ったのだ。
(話の流れで「遠野氏のイメージソングを各自で挙げてみよう」ということになって、Kさんが選んできたのはNirvanaのCome As  You  Are、私はThe BeatlesのStrawberry Fields Foreverだった。なんというか遠野氏の尻を叩こうとするような、真正面から対峙しようとする姿勢を感じるようなKさんの選曲に対して、私のそれは、遠野氏を救おう(?)という気がなく、厭世観に寄り添ってしまっている。どちらが良い悪いではないけど、こうも違うかと大変に興味深く、テンションも上がった。)

それから月ごとに課題図書を決めて、読み終わったらなんとなく感想を言い合うことにした。同じものを見てこんなにも違う捉え方が出てくるのは面白い。それを聞いて自分の中にもさらに新たな見方が生まれてきたりするからさらに面白い。これぞ人間の営み、と思う。

それで4月の課題図書だったのが、三島由紀夫の『仮面の告白』(以下「カメコク」)と、太宰治の『人間失格』。今回はひと月で2冊。いずれも中高の時以来の再読だった。つまり15年ぶりくらいか。
三島由紀夫は、忘れもしない中3の冬、『豊饒の海』を読み切って「なんじゃこの人は…」と呆然としたのを皮切りに、しばらくの間、連続して読んでいた。とはいうものの全作制覇などにはまったく届かぬまま今に至る。
ちなみに今回課題図書に挙げるにあたり、友人にはカメコクの概要を「戦争に行きそびれた(※便宜的表現)病弱で繊細な少年が腋窩に興奮するカミングアウトの話」と伝えた。ウケ狙いとはいえ適当すぎかとやや反省していたけど、再読した結果、「間違ってねーな」と思っている。

4月に入ってすぐに読み始めて、それでまあ、仕事が忙しい時期もあったり、通勤電車の中ではnoteを書いたり語学をやったりしていたからというのもあるけど、読了:4月25日。

かかったな~~。

時間かかる。
三島由紀夫、あらためて、ひと作品読むのに時間がかかります。
あのねえ、1頁読むのにひと苦労。引っ掛かりが多すぎる。
これは何も「幼少期、馬鈴薯は裏漉ししたものしか食べたことがなかった」とか「お祭りの神輿が家の前を通るように根回しする」とか、そういう坊ちゃんエピソードに度肝抜かれただけではなくてですね。例えば以下。

①折に触れて巻末注を参照しなければならない難解な言葉遣いや短くも鋭い文章に目をみはり、走り読みが(別にしたかないけど)できなくて時間がかかる。「本当の遊びがそうであるように、遊びというよりむしろ疾病に似ていた。」とか、そういうさりげない1文にもハッとする。

②三島のほかには誰も想像し得ないような独特で豪華で繊細な比喩表現に、見事、と思ってしまって繰り返し文字列を辿るから、時間がかかる。

 夏の午さがりの太陽が海のおもてに間断なく平手摶ちを与えていた。湾全体が一つの巨大な眩暈であった。沖には夏の雲が、雄偉な•悲しめる•預言者めいた姿を、半ば海に浸して黙々と佇んでいた。雲の筋肉は雪花石膏のように蒼白であった。

三島由紀夫『仮面の告白』新潮社 

 風景は喜色に満ちた。不吉にそそり立つ煙突の縦列や、単調なスレート屋根の暗い起伏が、旭にてらされた雪の仮面のけたたましい笑いの蔭におびえていた。この雪景色の仮面劇は、えてして革命とか暴動とかの悲劇的な事件を演じがちだ。雪の反映で蒼ざめた行人の顔色も、何かしら荷担人じみたものを思わせる。

三島由紀夫『仮面の告白』新潮社 

これよ?
もっと「何!?」っていうのがそこら中に転がっているのだけども、目についたやつを引用しました。こんなゴージャスな比喩と観察力と感性に満ちた文章が石ころみたいに平然とそこかしこに転がっているの、わけわかんない。

③そして何より、しょっちゅう「こいつ何言ってんだ?」「俺は今、何を読まされているんだ…?」という感情に包まれ、時間がかかる。
この「何言ってんだ」は、シニフィエに対してである。ああもうひとつに絞れないから箇条書きさせて。
・「黄金(きん)で炒られたような」って、なんのことだと思う?汗ですよ。汗。小学生かそこらの三島由紀夫もとい平岡家の公威坊ちゃん(以下「公坊」)がトキメキを覚えた、若い兵士の汗の形容。
いや汗だろうとなんだろうとだよ。黄金(きん)で炒られた、って、なんだ、冷静に。どういう状況?ファンタジーじゃん。とりあえず公坊にとって若い男の肉体が、汗が、(そして腋窩が。流血が)瑞々しく美しい、憧れの対象であるのは伝わるけども。それは良いよ趣味だから。でも「黄金で炒られた」って何。そんな言葉のマリアージュ、逆にAIじゃないとできなくない?Mishima GPT。
・それで言うと圧力をかけて「今破れるか今破れるか」といったゴム風船に「明るいときめき」を感じることも当然のように書いてるけど、…いや、トキメキはどうかな!?感じる…か!?
本人にしてみたらアウトサイダー的自意識の告白は具体的な性的興奮の対象に言及する時や他人との不和に言及する中で行っているのが9割5分なのだと思うけど、ふとした比喩に垣間見えるこういう感性は、狙ってやっているのだろうか、それとも漏れ出ちゃってるのだろうか。
・かと思えば雪の朝に校庭で片思いの男子と2人きりになるシーンでは普通にキュンキュンしてしまう。ちょっとオトナで悪ぶった感じの好きな人に、頬を手で包まれたりしたらそりゃもう、さ。公坊の気持ちに心が寄ってしまう。…のも束の間、圧倒的な筆致で身体測定の日に欠席したために裸体を見そびれたことを残念がられて、私の心のチベスナが目を細める。身体測定のメンズ、いやボーイズの解像度よ。新潮文庫をお持ちの方は69頁中ほどの、「瓦斯ストーブ」から始まる文章を反芻してください。私は付箋を貼った。

もう、ね。申し訳ないけどおもしろすぎる。本人は絶対にウケ(笑っちゃうという意味での)なんか狙ってなくて、至って本気で、己の感性に真摯に、言葉を尽くして書いている筈だけど、ぶっ飛びの境地にあると、もはや無条件でウケちゃうわけ。ツッコミどころが無限にある。

10代の頃はとにかく文章の凄さに圧倒されていたし、『豊饒の海』の荘厳さと難解さに触れた後だったし、三島を全肯定していたというか、あるいはこれを心酔とでもいうのか、とにかく疑うことを知らなかった。三島に限らず文豪という人種はすべからく知の巨人で理知的で崇高な存在だとすら思っている節があったので、真正面から本作を「芸術」だと思って対峙していた。と思う、今思えば。(旧仮名遣い&漢字の箱本で読んだから、それによってさらに重厚で格式高いイメージが上乗せされていたかもしれない。)
しかし、自分自身が大人になり、それなりの経験もして分別も身につけた今、10代の頃よりも三島由紀夫という存在をひとりの人間として見つめることができている(気がする)。↓の記事でもちょっと書いたとおり。

その結果、三島由紀夫の作品を「なんだこいつ」と思いながら読むことになってしまっている。ここ2、3年で『春の雪』『金閣寺』を読み直していたのだけど、少しずつ少しずつ兆しを見せていたこの思いが、『仮面の告白』を再読してついに確信に達したようなところがある。

20代の終わりに読み直した『春の雪』で、清顕、オメェってやつは…と思ってしまった。でもこの時はまだ良い。『春の雪』は映画でも舞台でも擦られてる(←言い方)から耐性がついてる。清顕のおま…お前……っていうところこそが三島の思う美しさであるというところまで含めて、共感こそしないけれど理解と想像はできる。
『金閣寺』は平野氏がNHKの100分de名著で担当した時に再読して、テキストで説かれる氏の三島観には成程と思いつつ、語り部の「私」こと溝口が、空襲で大騒ぎになっている折、てんやわんやの屋外で「気が付いたら私は眠ってしまっていた」みたいなことを言うくだりで、お前…気絶していたのでは…?と思ってしまう程には語り部の虚栄と自尊心が気になってしまっていた。

そんなコンディションで再読した『仮面の告白』。
全部を語るのは難しいのだけれど(そこを語ってこそだろうが!という思いもある)、とりあえず総括として読了直後に私が本扉に貼った付箋には、「とにかくロマンチストで夢想家で独善家でサイコパス…?」と書いてある。さらにKさんと感想を交わす中で最終的に二者間で固まった三島の形容は「千年に1人のエゴイスト」「恋愛体質のエゴイスト」と散々なものになってしまった。断じて悪口ではないんです。下2つは特に。信じてください。マジで天才とは思っています。Kさんは今回が初•三島だったようで、心の底から衝撃を受けていた。本当なんです。

終戦直後の時代に、性的指向(&嗜好)をカミングアウトする自伝的小説で地位を確立したエリートの坊ちゃん。こりゃキャッチーでセンセーショナルですわな。三島由紀夫という作家は、読む方の年代によってさぞかし作家観が異なるだろうと思う。挙動のインパクトと文章の凄まじさに混乱しちゃうよ。

カメコクを読んで、『豊饒の海』はつくづく三島の一貫した美学の追求の果てであり、発露であり、そして性癖だったのだということを再確認した。
同時に、松枝清顕は生き様こそ三島の夢見るものでありつつ、パーソナリティや境遇についてはかなり自身と重ねているように思えることにも気付いた。その差異と共通点によって、三島の美への憧れの切実さはなお引き立つ。
あと月並みだけど、幼少期の生活が若さとか活力、無邪気とかいったものから縁遠すぎて、また祖母の干渉や束縛が読むだにしんどくて、じっさいのところ、この人の指向形成に女性や軟弱への嫌悪•憎悪は関与しているのか、しているならばいかほどなのか、とは考えた。

私が持っている文庫本は少し古いので巻末解説は福田恆存氏によるものなのだけど、最新版は中村文則氏が(も?)解説を寄せていて、同氏は「三島の一連の行動は(崇高な)思想というよりはむしろ(男の色気ムンムンの世界的な意味で)趣味だったのではないか」と述べているらしい。うん、私もそう考えてしまった。カメコク読み直したら。
時代、生家、生育環境に性的指向。因果においては本当に無意味な仮定だけど、なにかひとつでも違って現代に生まれていたら、この人ただのネトウヨだったのでは…?(小声)

いや、まあ、思想だとして。
私も三島と思想は異なるけど、今までは何だかんだで「好き」、もしくはそれ以上の領域に三島を置いていた。
しかしカメコクの読了後、私の心は確実に、三島に反感を覚えている。
その辺は太宰治『人間告白』の感想文で触れた。

この事実に我ながら動揺を覚える。

三島由紀夫は私にとってかなり大切で重要な(と自認する)読書体験だったから。
そして、私を平野啓一郎に出会わせたのも、他でもない三島由紀夫だったから。その辺は下記の記事で一度書いてた。(過去記事の引用ばっかりですみません。三島のことを散らして書きすぎ。)

15歳から今に至るまでずっと三島由紀夫のファンを自認・自称しているわけではないけど、自分の文学的趣味のかなり根深いところに三島は、いる。
三島と平野氏も作品の方向性も思想も異なるのに(ハイレベルな比喩表現は共通している)平野氏が三島に惹かれ続けるように、私も青春時代の何か…文学情緒ヴァージンを持っていかれてしまった。新潮社のHPには中島岳志氏による本書の紹介文があって、曰く、平野氏は「『金閣寺』との出会いがなければ、私の人生は今と同じではなかったであろう」と。小説家にこそなれていないけど、『豊饒の海』と出会ったから、私は平野啓一郎とも出会った。その意味で私の人生は三島によって分岐している。

そんな三島を…今……拒絶しようとする心が…私に…???

これは由々しき事態です。

あえて大袈裟に言うならば、愛の根拠が抹消されるような(本当に大袈裟)。
そう、『ある男』の梨枝の心情が、今なら少し身近に感じられる。すみません軽率な発言をしました。

というわけで、タイトルの気持ちになっています、今。タイトル回収に5,500文字かかった。
三島に人生の分岐を~…とか大層なふうに言いつつも、私の三島との対峙は所詮、10代の少しの間とここ数年の点的なものなわけ。実際、20冊も読んでいないと思う。
それに引き換え、私淑する平野啓一郎氏は、三島に青春の文学情緒ヴァージンを奪われてから、ずっと一途に三島の背を追い続けている。(脱線するけど、平野氏の作品の魅力のひとつは、こんな風に「去りし何かの輪郭をなぞり追いかけている」ところだと思う。それは平野氏自身のお父上のことがあるからだとずっと思っていたけれど、ふと、三島もその対象だったのかと気付いた。脱線おわり。)三島は『金閣寺』の執筆中に森鷗外の文章を模写して自己改造に挑んだらしい。平野氏が森鷗外のことも好きなの、医者家系の親近感?とか純粋に倫理観への共感とか色々あるだろうけど、三島由紀夫への情熱ともリンクしているのでは?とか考えてしまう。それくらい平野氏はCan’t take eyes off 三島だ。
敬愛する平野啓一郎先生が、こんなにずっと追いかけて、散々インプットとアウトプットを重ねて、それでこんなにずっとお熱なんだもの。きっと『三島由紀夫論』には、浅はかな私の幼い反感を覆してくれる、深く重い思慮と業に満ちた考察が綴られている。

何も平野先生の言説ひとつひとつを盲信したくて読むわけではない。ないけど、15歳と31歳で読んで感じたことがまったく違うように、友人Kさんとも抱いた感想がまったく違ったように、本書を読んだらまた目の開く思いを抱くのだろうな、と思うのだ。

読みかかるのは5月の課題図書(高野秀行『語学の天才まで1億光年』、集英社インターナショナル)を読んでからになりそうだけど、『仮面の告白』の読後感が新鮮ホヤホヤなうちに「――論」だけでも読みたい。
冒頭でもリンク埋め込んだけど、体裁的に再貼付します。
表紙を見て、目次にざっと目を通すだに鼓動が高鳴るね。この表紙、どう見ても強火担による壮大なファンブック。
楽しみです。

それでは。

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