映画『ある男』メモと感想
こんばんは。雨ですね。
行動が、制限される、インドアに(一句)。
制限されるからこそ捗る、という部分もあって、日頃のモチベーションとは何なのか、という気分にもなる。
からだが欲する限り寝て、お昼に起きて、洗濯、ご飯。楽器のレッスンに行って帰ってきて、観葉植物の植え替えに悩みはじめた。どの鉢にどう移そう。決まらないのでPCを開く。
そんな感じで今日は日記じゃなくてこういうのを書いてみようと思う。
春分の日に映画『ある男』を観てきた。2度目の鑑賞です。
日本アカデミー賞で最優秀賞最多8冠を受賞して凱旋上映の期間が延長されたおかげで、行ける上映回ができた。
【はじめに 平野啓一郎と私】
何を隠そう、いや何も隠さないけど、私は平野啓一郎先生が好き。「我が敬愛する平野啓一郎」。高校の時の国語の先生風に言ってみました。
もともとは三島由紀夫の訳分からん才能に魅せられた中学生だったのが、国語便覧を流し読みしていた時に、「芥川賞を当時の史上最年少で受賞し、受賞作品の文体、語彙、世界観から『三島由紀夫の再来』と評されている」というようなことが書かれていたのを見て、それが平野啓一郎に興味を持ったきっかけ…いや、ちょっと嘘かも。
「日蝕・一月物語」を読んでから、10年近くをおいて『空白を満たしなさい』を読むまでは遠のいていた。『日蝕』、ぶっちゃけ理解・共感する類の作品ではないし、文体などの外形だけで三島由紀夫の再来という形容には納得できたので、深みに向かわなかったんだよね。その後、部活に入ったり受験で読書をやめてしまったりということもある(ここからしばらく、読書と距離を置いてしまったのを悔いています)。
平野先生の作品がどう良いか、なぜ好きか、というのは、言葉にしようとすると難しいし、いつまでも『ある男』の感想がはじめられない。ただそれでも往生際悪く好きなところを言うなら、平野先生の作品は、優しい。
小説の舞台設定が優しい世界というのではない。大抵、複雑でグロテスクで、陰鬱な気持ちにならざるを得ないような、どうしようもなく「実社会」な現実が広がっている(普通に辛すぎて泣いちゃう。)。
社会の禍々しさが、人間の嫌さが、社会問題と絡み合いながら、複層で描かれる。即物的なハッピーエンドも迎えない。
けれど物語の中で、問題を抱えていた登場人物はたしかに気付きや受容を経て歩き出す。外の世界は何ひとつ変わっていなくても、ささやかな光が差している。終盤はいつも、どこか眩しく、さわやかで、少し寂しい。諦観とも、もちろん身勝手な鼓舞とも違う、癒しのような感覚。読んでいる私は、そこに救いを見出せる。
もっとも『空白を満たしなさい』、せめて『ドーン』以降の話ですが。ここに至る過程である『決壊』とか『顔のない裸体たち』とかはこう、分人主義の片鱗を感じつつ、苦しみの渦中にある感じがする。
とにかく三十路を超えた今、平野先生は私にとってある種「推し」みたいなもので、平野先生をきっかけに毎回の芥川賞受賞作をチェックしたり読んだり(つまり全部は読めていないということですね)しているし、存命作家、若い作家の本を読む方へ意識がいくようになったのも平野先生のおかげだ。
【導入 『ある男』と私】
さて、映画『ある男』、原作小説は2018年の発売直後に読んで以来手つかずだったので、正直、昨年11月の上映開始まもない頃に観た時にはディテールを忘れてしまっていた。
だから今回は読み直してから鑑賞に向かった。宛名入りのサイン本で読み直してな!マウントです。誰に対して。
暗闇の中で感覚だけを頼りに書き溜めたメモ(思ったより上手に取れてて大部分が解読できた)を、以下の区分で整理して脳味噌の外に出しておく。併せて、感じたことも付け足していくぅ↑↑(急なアゲ)
⚠️随時加筆修正をしていく、かもしれない。
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【映像で観てこそ気付いたことや感じたこと】
里枝の母親は、文房具店に来るお客さんと駄弁り友達。これはたしか原作でもそうだけど、映像で、先立った夫の事を思い出して涙ながらに話せる他人がいる里枝の母親の姿を見て、そういう相手がこの故郷にはいないのであろう里枝との対比を意識することができた。他人にだからこそ零せる弱音、傾けられる体重というのはある。
X(原誠と呼べば良いのだけど、原誠は彼が逃げたかった彼だから、なんだかそう呼ぶのが躊躇われる。だからあえてXと呼んでいきたい。)は、絵を見せに来た時、本当は別にペンは買う必要なかったんだろうな。実体を伴うと、そういう無駄さ、自然さの装いというか、人間くさい意識を思うことができる。
そういえばXの趣味ってなぜ絵(風景画)を描くことだったんだろう?と、映像で観ていて、はじめて思った。「自分の目に見えているものを、そう見えているように描く」ということに、人が人を解釈することを重ねていたのだろうか?
「谷口」の名刺を差し出すという行為の重さ。里枝と友達になりたいと望んだのは紛れもなくX自身の意思だけれど、彼は「谷口大祐」の人生の続きを生きている。出会った時点では、里枝にとっては、「谷口大祐」は目の前の人物を指す単なる記号に過ぎない。でもXにとっては、自分であり、自分ではない人生の続きでもあったわけで。谷口大祐です、と名乗れるからこそ人と対峙できる、そのことと表裏一体で、Xの心の奥底に、里枝と知り合えない「自分自身」がいたのではないか、なんて、考えてしまった。それこそがXが消し去ってしまいたいものだったのだろうけど。
お友達時代にお蕎麦屋(だっけ?鰻?)で過去の話をしているとき、里枝はタメ口で、Xは敬語なんだな。
「遼くん」って呼びかけてあげる。Xが、人の名前であろうが自分の(ということになっている)名前であろうが、口に出す度に、感じ入るものがある。
死んじゃうところで普通に泣いちゃった。悲しくて。ここでこうならなかったらXはこの先どんな幸福を、平凡な悩みや苦しみの中での平凡な幸福を知ることができたんだろうと。
1度目の鑑賞から思っていたのだけど、全編を通して、息子・悠人の抜きの映像とか、ふとした瞬間の描写が、良い。気がする。小説にはない描写で、悠人の性格や心情を細かに写し取っている。お父さんの職場に馴染んでいる悠人。お葬式に参列してくれた人に会釈するよくできた子。谷口兄が仏前でお線香をあげているとき(だったかな?)、カメラは悠人の背中をとらえる。
背中と言えば、「背中の映像」はあきらかに意識的に、随所にあらわれる。マグリットの≪複製禁止≫は原作の序でも出てくるけれど、映画の映像はまさにこの絵(さらにそれを見つめる城戸の背中)から始まり、終始、これと符号させるように、城戸、X、悠人の背中を映す。
だから割と、悠人に意識がいったな。小説よりも悠人の存在感が強調されていたと思う。そしてそれは個人的には気に入っている。
とはいえ悠人、蝉の俳句のくだりがカットされてるわけだから、プラマイゼロかもしれない。
あ、あと好きな演出で言ったら、自宅で在日の番組きっかけで妻の香織と口論した後、消えたテレビの画面にぼんやり映る城戸の身体の輪郭。露骨っちゃ露骨だけど、これとても良い。
原作再読を挟んで2回観て、個人的には、城戸のキャスティングが良かった、と思っていたことに気付いた。
私、読んでいるものを頭の中で映像化するという作業がおそらく苦手なのだけど、再読中、他の人は(※おことわり:別に違和感を持ったりは全然していない。)初読と変わらず特段のヴィジュアルが浮かぶことはなかったのに、城戸(と、あとちょっと小見浦の柄本さん)だけはかなり妻夫木さんの印象で読んでいた。原作では眼鏡キャラのはずであったというのに、その設定を覆してなお。
【脚本や演出で気になっていること・疑問に思ったこと】
純粋な疑問
城戸の移動中にちょくちょく映される、多分横浜界隈という設定の、大工事中の背景。あれは何かを示唆(比喩)しているのだと思うのだけど、なんだろう。
小見浦との面会時。机についた小見浦の手形が少しずつ消えていくのが映る。この演出は何を示唆している?掴みどころのなさとか、存在のあいまいさみたいなものだろうか。
ちょっと子供の頃の悠人?が走る背中の映像がありましたか?(何もかも朧)あれはなんだろう。
不満交じりの疑問
里枝のXの呼び方、どうして「大祐くん」じゃなかったんだろう。その改変は、なぜ。
真相へのショートカットなのだろうけど、Xはともかく、父の小林謙吉も獄中で人の顔が潰れている絵を描いていたというのは、あまり納得はできない。
悠人がはじめて里枝から父の問題について聞かされ、桜の木の前で写真に写る写らないのくだり。原作では表情づくりに困りつつも映るんだけど、里枝が「悠人はいいよ」と明確に断る形にしたのはなぜなんだろう。悠人の性格や親子の関係性の改変になりかねないような気がしたけど。
なぜ香織がもう1人欲しがっているっていう設定にしたのか。
美涼だけ妙に若いことにならないか?原作では40代って言ってるけど、もしかして映画では30代ですらなく、20代か?「私が高校生の時だから」っていう言葉があったのだけど、もしかして谷口大祐と同級生設定でもない?なにゆえ??For what???
なお、
【省かれていたことに気付いた設定】
谷口家父の臓器移植の件
谷口兄も美涼に好意を寄せていること、FBアカウント作成の発案は谷口兄であったこと
小見浦との応酬(しゃーないかもしれんが)。やり取りの中盤(しゃーないかもしれんが)。見た目やいじめやゲイビでこういう人間になったとかならないとか、手紙の途中経過とか。
三勝四敗主義
城戸と美涼の間にワンチャンの間があった
本物の谷口大祐と城戸の会話、谷口の変貌
悠人の俳句
【追加されていたことに気付いた設定】
ボクシングジム&中華料理屋の女の子(アカネちゃん)
本物の谷口大祐と美涼の再会(本来は余白)
美涼の三勝四敗主義については、省かれて残念だったな。このくだりは、終盤の城戸の選択(at家族のお出かけ)にも関わっていたと思うので。
なぜ?と思ってたけど、いま書いてて気づきました。城戸と美涼の関係性を描かないための対応のひとつだ。だから城戸と谷口大祐a.k.a.曾根崎の対話もないし(それによって「ラベリングが人をつくる」みたいな、Xの苦しみを別視点から見つめている要素が消えてしまっているんだよな…。)、逆に原作では描写されていない(つまりは余白として描写されていた)美涼と谷口大祐の再会シーン(感動系)が描かれていたんだな。すべて繋がったぜ。
原作では城戸と美涼は惹かれあっていて、互いに…城戸は特に、決して成就の方向へ動くことはない。名古屋へ向かう新幹線の中で、どうやら「両想い」であることを察するけれど、その気付きに気付かないふりをする。
ちょっと複雑なんだろうな、これを齟齬なく映像化するのは。それに121分の映画の中に不倫の片鱗も入ってきたら、原作未読の観客は混乱するかもしれないし、地雷の人がいるかもしれない。インモラル礼賛の作品なのか、なんて言われちゃったりするかもしれない(するか?)。
【まとめに入る】
まあだから思い返すと、結構削がれた部分もあったんだな、という感想です。平野先生は語彙が豊かで、やはり「三島由紀夫の再来」だけあって(この言い方、なんか険がないか?)比喩で伝えてくることも多い。
映画には地の文がない。映像とセリフがすべてになるから、何が不足していて何が過剰なのか、そのバランスにはものすごい繊細さが求められると思う。小見浦とのやりとりの経過とかその時の城戸の心情、本物の谷口大祐との再会シーン(しつこい)、全部をやろうとしたら全体がガタガタになってしまうのかもしれない。それなら何を伝えるために何を引き何を足すか。そういう映画作りだっただろう。
中華料理屋&ボクシングジムに現れたアカネちゃんは、XがXであるままではやっぱり他人に踏み込むこともできない、ということを強調するための投入だったのだと思うので納得できた。
両隣が多分どちらもカップル?だったのだけど、両隣とも上映が終わって席を立つとき、「え、最後どういうこと?」「あれは…名乗ってみただけってことだよね…?」と、戸惑っていた。そういえば、そのあたりの描写あったっけ?
そうか、原作の中盤、宮崎のバーで谷口大祐を騙ってみるくだりも省かれているのだ。
他人の人生を、傷を生きることで救われるものがある、という城戸の実感を、そういえば映画の観客はあまり受け取れないのかもしれない。
他人の人生を通じて、間接的になら、自分の人生に触れられる。
作中の城戸の言葉。それはそのまま、小説を読むことの意義と同じ。
現実の痛さを突き付けられるからこそ、その痛みに私たちは癒される。
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