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【読書感想文】太宰治『人間失格』

こんばんは。
GW。ゴールデンウィーク。帰省しています。
そしたら昨日、ごくナチュラルにnote更新忘れちゃった。連続投稿記録、50日を前にして破れたり。
でも大丈夫。大丈夫と思えば何でも大丈夫なんです。すべては主観。幸も不幸も主観。色即是空。というわけでそんな読書感想文です。

『人間失格』再読、4月29日 了。
主に電車移動や休憩の時間に読んで、正味2日程で読み終えた。長さも全然違うとはいえ、三島由紀夫『仮面の告白』(以下「カメコク」)との読みやすさの差よ。

前に読んだのは中学生の頃でした。夏休みに班ごとに決めた場所に出向く課題があって、東京は港区高輪のユニセフの施設に行った時。行きの新幹線の中で読んでいた。いや班で動いてんだろ友達と話せよっていう話なんだけど、そう、当時は今に輪をかけて社交力終わってたから…。…?いや今の方が終わってるか?とにかくあとの2人が盛り上がってる横で『人間失格』読んでた。って書くとすごい中二病っぽくない??親にブックオフでまとめて買ってもらった古本を順番に読んでたんです。本当なんです。この時期に読んだ本は他にはたしか、『野菊の墓』とか『檸檬』とか『山月記』とか、だったと思う。

そんで、今となってはもはや「そうなった」という事実とわずかな感覚しか覚えていないのだけど、私はこの『人間失格』ではじめて、「周りの音が聞こえなくなる」という体験をしたのだった。
隣のシートの友達が私を呼んでいたのに、没頭してしまって、何度目かの呼び声にハッとした、っぽい。漫画のシーンみたいに急に意識が浮上する感じ。もともと自分は周りの音が気になりやすい性質なので、こういうことは本当に稀で、すごく印象深い体験として思い出になっている。何ならその後のユニセフ事務所見学よりも(地雷の模型は何だかとても記憶に残っている。)。

それから太宰にのめり込んだかというと必ずしもそうではなかった。これは今思うとちょっと不思議。何冊か立て続けに読みはしたはず。『津軽通信』や『斜陽』を読んだ記憶がある。

まあとにかくそんな『人間失格』です。
読書会4月の課題図書を決める時、三島を読むならセットでいこう、ということで『人間失格』も読もうということになったんだったと思う。
今思えば大正解だ。

ゆーて中学生(初心(ウブ)で多感なティーン)だからそんなに刺さったんじゃない?
今読んだら、そうでもないんじゃない?そうでもないかも。
そんな予想をしながら読み始めた。あと、三島の濃すぎる・歪みすぎてる作品の後味を別の作品で薄めたい、という気持ちもあったかな。

いや~~~~………

………………………………

………………良い、な。
露天風呂に浸かってるみたいにしみじみ言ってしまうよ。

ひたすらに寂しい小説だ。その寂しさが癒しになるという、文字どおり捨て身の小説だ。
他人はどこまでも自分と違う地平に生きていて、自分は見られているようで本当はなにも見られていない。他人と触れあうたびに、この世の得体の知れなさを痛感する。エイリアンの孤独。

カメコクと頭の中で比較しながら読んでいたわけだけど、どちらも「アウトサイダーな自意識の持ち主による社会へのカミングアウト」でありながら、三島はその作品により文壇に登場、太宰はそれが生前最後の完結作、という対称性がある。

三島は、その性的指向からアウトサイダーなので、その意味では「馴染めない」のも尤もだっただろうという、分かりやすい理由(ハードル)を持っていたといえる。
太宰は、客観的(?)にはそういう、分かりやすい困難がないのに、いや、ないにも関わらず、「人」というものが分からない。もう救いようがないじゃないか、救われようがないじゃないか、そんな苦しみは、疎外感は。
葉蔵がモテるたび、ひたすら寂しさというか疎外感の気持ちが強まっていく。
三島は、三島の自意識は、強い自己愛のもとにある。と感じる。
太宰は、自尊心ごとほとんど持ち合わせていないように見える。
三島にとって他人は「自分のことを理解できない人」。私が『仮面の告白』で軽い(軽い?)反感を覚えたのは、三島のこのスタンス。自分は人心の何もかもを理解し、掌握している。そう思っているようにすら思えてしまう。三島が人の心について語る時はつまり、「こいつに私はこう見られている」みたいな時だった。常に疎外感と生きる中で、なんか三島はちゃんと自分を愛してるなとは感じる。

両作の感想を言い合っている間、宮沢賢治の話題にもなった。
友人は、「三島由紀夫や宮沢賢治は『こういう人間でありたい』という理想があるけど、太宰はダメであることから抜け出そうとしていない(のが解せなくて共感はできない)」と言っていたのだけど、個人的には、太宰の魂にはむしろ宮沢賢治に近しいものを感じている。宮沢賢治の解像度が低いかもしれないけど。
「理想」という形、社会的にポジティブな形にこそ昇華できなかった(それもひとつの悲劇である)けれど、太宰の破滅的な在り方の根本には「いまこの自己が存在することの嫌悪」「解脱したい」というのがあるのではないか。それはコンプレックスなんて言葉で済む感情ではなく、もう、在ることの苦しみ。それは厭世的な表情を覗かせる宮沢賢治にも感じるところだ。寄ってくる人に依存したり薬物中毒になったり、それらはある意味では太宰なりの変化願望だったと解釈できる。その表出の仕方は個人の意志では選べない…。あと、自分が信望する・敬愛する特定の他者を神聖化して、存在に縋るように生きるメンタルも近いものがある気がする。すみませんイメージです。
三島は他者と比べた時の、他者に評価される自身にコンプレックスと劣等感こそあれ、「解脱したい」という魂の苦しみはむしろなくて、外見的な部分を克服することでその劣等感も克服している(と主張している/見られ方が気になるというのもひとつの弱さじゃんという話は今は置いておいて)点で、太宰とは違うのかなと思う。
ただやっぱり両者、根っこのとこに卑屈さみたいなものがあるのは共通していて、だから三島は太宰に喧嘩売ってたのかな。わざわざ会いに行って「あなたの文学は嫌いなんです」なんて言うっていうのは、三島の心の方になにかあるとしか言いようがない。
これは性格の悪い想像だけど、カメコクを読んだ後だと、先に文壇で評価を得ていて、自身が共感した作品もあり、身長175㎝で「藤井風」風な(?)地方の坊ちゃんである太宰に、身長164㎝の都会の坊ちゃんは、共通点と相違点の間でめちゃくちゃ複雑な感情を抱いていたのじゃないかなと思いを馳せた。

現実には何も解決していなくても、他者が同じように痛みを感じていることを知って気持ちが楽になるということは、どうしても、ある。
それは後ろ向き…というか、ともすれば人と自分の境遇を比べて安心/嫉妬するようなあさましさと繋がり得るのかもしれないけれど、正しさやストイックさ、明るいものばかりには、やっぱり救われない。傷を追体験することで癒されるものがある。あれ?ホメ●パシー?純文ってホ●オパシーなのか?

文芸評論家の奥野健男氏による解説もよかったな。
太宰に青春時代のハートを奪われた青少年のpurityの行く先という感じで、読んでいてもう気持ちが良かった。
太宰が命を絶ったのは38歳の時。39歳になる直前の38歳。解説者は「39歳は弱さを持ち続けられる強さを抱えていられる限度だったかもしれない」と言っている。そうかも。変わることへの躊躇とか葛藤とか、自意識とか、所謂「青さ」的なものって時間と生活というヤスリでどんどん削られていくんだな、というのは、今まさに体感していることで、放っておいたらこの先もずっと下り坂かも、と思う。色んなことに慣れていく。傷つかなくなる。いや傷つくことにも慣れていくだけ?
まずは39歳より前にもう1度読めてよかった。
そしてまた「良い」と思えたことにも安心している。
39歳になった私は、あるいはもっと年をとった私は、どうなっているのだろう。今この作品に抱く気持ちを、失っているだろうか。

これまで意識してこなかったけど、実際のところ、自分にとってかなり大事な作品だったのかもしれない。自覚が伴ってないのはおもしろいな。
少なくとももう一度再読、します。39歳の時に。

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