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*小説《魂の織りなす旅路》 不毛の地

少年は己の時間を止めた。目覚めた胎児が生まれ出づる。不毛の地に現れた僕は何者なのか?

【不毛の地】

 「ほれ、起きれ。ほれ、行くぞ。」

 重たい瞼を開けると、浅黒い皺くちゃの顔がこちらを覗き込んでいる。驚いた僕は身をよじり、咄嗟にこの見知らぬ男から離れようとした。

 「話はあとやね。もう出発しなきゃなんねぇ。ほれほれ、起きれ。」

 男が僕の腕をつかむ。腕を引っ張られた僕は、よろめきながら立ち上がった。何か言おうとしたものの、乾燥した上唇と下唇が張りついて上手く喋れない。

 「ほれ。水さね。飲めれ。」

 男は皮袋の水筒を僕に差し出した。僕は水筒の栓を抜いて、乾いた喉を潤す。どうやら低木の木陰で寝ていたらしい。木陰といっても葉はまばらだ。強い陽射しに晒された肌がヒリヒリと痛む。

 「俺はあんたを知ってるさね。だけどあんたは俺を知らないやね。」

 男は大きな白い布を僕に差し出しながら言った。僕はその大きな白い布で、裸の体を覆いながら不思議に思う。何故裸で寝ていたのだろう。

 「裸なんが不思議さね。」

 男は、僕の心を見透かしたように言った。

 「そりゃあんた、あんたは生まれたてのほやほやだからやね。」

 僕は裸でいることをからかわれた気がして、少し不機嫌に言う。

 「裸だから生まれたての赤ん坊とはね。短絡的な発想だな。」

 「そりゃあんた、あんたは赤ん坊じゃないやね。でも、生まれたてのほやほやなんやさ。」

 「生まれたては、みんな赤ん坊だろう。」

 「そうとも限らんさね。ほれほれ、おしゃべりは歩きながらでもできるやね。」

 男は僕の背中を軽く押した。僕は足裏の赤土をしっかと踏みしめる。右足で踏みしめ、左足で踏みしめ、そうして交互に赤土を踏みしめながら歩きだした。
 僕に何が起きているのか。僕は知らない。夢を見ているのだろうか。夢の中で起きて、夢の中で赤土を踏みしめ、夢の中でこうして、黙って歩いているのだろうか。
 僕は歩く。赤土を踏みしめ、ひたすらに、黙々と歩く、歩く。僕は、歩いている。それだけが、今の僕に唯一わかっている真実だ。

 僕が寝ていた低木が遥か彼方の点となり、とうとう見えなくなったとき、僕はため息をつき呟いた。

 「生まれたてのほやほやとはね。ふざけた話だ。」

 そして、馴染みのない自分の手を見つめながら、ぞんざいな口調で男に話しかける。

 「ところで、こんな大きな僕を生んだのは、いったい誰なんだろうね?」

 男は皺くちゃの顔を僕に向け、口元を緩めた。

 「そりゃあんた、あんたは始まりの者から生まれたんさね。」

 男は当然のことのように、しかし僕が知らないのは仕方がないという風に答えた。始まりの者。創造主といったところか。男はなんらかの宗教の信者なのだろう。面倒な人間に拾われたものだ。

 「宗教とは違うさね。ここも、あすこも、あんたも俺も、始まりの者で満ちているさね。」

 男は僕の胸の内を見抜いたかのように言った。さっきもそうだった。裸でいることを不思議に思ったときだ。そんなに思ったことが顔に出ているんだろうかと訝りながら、僕は投げやりに答える。

 「僕には赤土と、ところどころに生えている低木しか見えないね。」

 「そりゃあんた、始まりの者は見えるもんじゃないやね。」

 「でも、そこから生まれたという僕の体は、しっかり見えるじゃないか。」

 「そうさね。あんたの体は見えるやね。でも、始まりの者は見えっこないやね。」

 どうやら、この男とは会話が成立しそうにない。僕は再び黙って歩くことにした。

 今、僕の身には不可思議なことが起きている。僕は僕を知らない。ここがどこなのかも知らない。しかし、この男は僕を知っていると言う。
 とりあえず、それだけでもこの男についていく価値はありそうだ。こんな乾いた何もない赤土の上で、何もわからず立ち尽くしていても飢え死にするだけだろう。
 僕の記憶は、この男が僕を覗き込んだところから始まっている。それ以前の記憶はない。記憶喪失なのかもしれないが、思い出せないという苦痛も、思い出したいという願望もなく、まるで僕という存在が、突然ここに出現したかのようだ。
 悔しいが、確かに今の僕の意識は生まれたてのほやほやなのだ。しかし、とてもじゃないが、始まりの者だなんて怪しげな話は受け入れられない。

 男は黙々と僕の前を歩いている。僕は、足元を通り過ぎていく赤土を、ぼんやりと眺めながら男についていく。どこまでも続く乾いた赤土と、ところどころに点在する葉もまばらな低木と。ここは不毛の地だ。

 「不毛に見えるだけさね。」

 ふいに僕の前を歩く男が呟いた。やはり、この男には僕の心が見えているのだ。そうに違いない。
 一体この男は何者なのだろう。どこから来て、どこに僕を連れて行くのだろう。

 「見えるものと見えないものの境目さね。」

 男は当たり前のように、僕の心に浮かんだ質問に答えた。

 「そこはここから近いのか?」

 どうせ答えらしい答えは返ってこないだろうと思いつつ、僕は聞く。

 「近いと思えば近いし、遠いと思えば遠いやねぇ。」

 どうやら僕を冷やかしているわけでないようだ。始まりの者を信仰するこの男にとっては、近いも遠いも大差ない無関心ごとなのかもしれない。
 僕は再び黙ると、自分の手をためつすがめつ見つめながら歩いた。記憶がないのでこの手には馴染みがない。僕はぎゅっと手を握りしめた。もわっとした鈍い感覚が手のひらに広がる。なんとも心許ない、薄ぼんやりとした感覚だ。赤土を踏みしめる足裏に、ぐっと力が入る。
 もたげていた頭を起こし、どこまでも広がる赤土と、低木が点在する不毛の地をぐるりと見回す。丸一日歩き続けたところで、この景色は変わらなさそうだ。
 変化のない眺めにうんざりしてきた僕は、始まりの者がそこらじゅうに満ちているという、男の言葉を思い出す。それならこの手で掴み取ってやろうじゃないか。僕は苦々しく笑う。そして、目の前の空間を掴んだ。

 「ひゃっひゃっひゃっ。あんたは面白い人やねぇ。どうかや?掴めたかや?」

 男は皺くちゃな顔をさらに皺くちゃにして、笑いながら振り向いた。

 「始まりの者は掴めんよぉ。手のひらを空に透かしてみぃ。」

 開き直った僕は、半ばやけになりながら空に向かって両腕を伸ばした。手のひらを太陽に向ける。僕の両手がみるみるうちに、空気に溶け出し透けていく。手のひらで遮っていたはずの太陽が、僕の目を鋭く貫いた。
 僕の手が、僕自身が、消えてしまう。僕はすかさず両手を引っ込めた。恐る恐る胸元を覗き込んでみる。両手は何事もなかったかのように、僕の胸に収まっていた。

 「わからんかや? あんたも俺も、始まりの者で満ちているさね。」

 そう言うと、男は再び歩き始めた。

次章【洞窟】につづく↓

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