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*小説《魂の織りなす旅路》 手紙

少年は己の時間を止めた。目覚めた胎児が生まれ出づる。不毛の地に現れた僕は何者なのか?

【手紙】

 あのときはどうもありがとう。君のおかげで動揺した僕は落ち着くことができた。帰国しなければ後悔していたに違いない。父はあれから2ヶ月頑張ったよ。短い期間ではあったけれど、僕は僕なりにできる限りのことを父にしてやれたと思う。
 父は僕の帰国をとても喜んでくれた。悪いなと言いながら、嬉しさを隠し切れないんだ。母は大丈夫なのにと言いながら、何につけても僕を頼ってくれた。
 父の死は穏やかなものだった。思うように体が動かなくなっても、車椅子に乗って川辺の橋で釣りをする父は、いつも朗らかで温かかった。僕は今、父の瞳の向こう側にあった景色に想いを馳せながら、優しさを伴った悲しみを慈しんでいる。
 一時帰国のつもりでいたけれど、会社を辞めてこちらに残ることにしたよ。母は日本に戻れと言うけれど、70過ぎの母を1人残して日本に帰れば、僕は絶対に後悔するからね。それにこの国で再就職先を見つけるなら、30代のうちがいいんだ。40代になると見つけにくくなる。
 書道は続けていくよ。こちらで先生を見つけるのは難しいだろうけれど、必ず続けていく。今でも、毎日墨を磨るんだ。墨の香り、磨る音、僕はあの静寂が大好きだ。

 ところで、僕は日本にいたとき、君に伝えるつもりでいたことがあった。このまま伝えないでいようかとも思ったけれど、君がよく口にしていたように、後悔しない選択をすることにした。
 僕は君を愛している。君が僕のことをどう思っているかはわからない。けれど、君はいつも僕の気持ちを大切にしてくれた。僕はそのことに感謝しているし、だからこそ、この気持ちを伝えずにはいられなかった。
 今、僕はここから離れられない。多分、君もそこから離れられない。わかっているんだ。だから、こうして手紙で僕の気持ちを伝えることにした。
 僕は、いつまでも君のことを想い続けて生きていく。もし、君が僕のことを愛し、僕のことを想い続けてくれるなら、再開の日が訪れるまで、この手紙を持っていてほしい。
 時の流れが、再び君に会える日へと導いてくれることを願って。  悠(はる)より

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