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肯定するでも否定するでもなく

NAKです。光たちと一緒に過ごすのは、とても気持ちがいい。ひとつひとつの反応が素直で裏表がなく清々しいから。たとえば、光たちのいいなぁという羨望には自分とくらべての妬みがなく、純粋にいいね、すごいね、ラッキーだねと、ともに喜ぶ気持ちに溢れている。

人間のいいなぁは、どこか重たい。相手のラッキーをともに喜び味わうというより、そのラッキーにあずかれなかった自分の不運に気持ちが向くからだろうか。

光にはいろんなキャラがいるけれど、相手を肯定するでも否定するでもなく、自分を肯定するでも否定するでもない。ありのままという感じ。

昨今「肯定感を高める」なんてことが言われるようになり、教育畑の私は共感を抱いてきたのだけれど、わざわざ肯定するというのは不自然なのかもしれない。否定しちゃいけないと思うから肯定しようと思うのだから。そこには「受け入れなければ」「受け止めなければ」という義務感が生じる。ありのままには肯定も否定もなく義務感もない。

ありのままのからかいは純粋で楽しい。ひーちゃんはキャラが飛び抜けているので、からかいの対象になりがちだけれど、それはとても楽しく腹筋が痛くなるような笑いをもたらす。みんなで笑って、ひーちゃんも笑って、私も笑う。こういうときの、えへへっというひーちゃんの笑いが好き。

しーちゃんは引っ込み思案。そんなしーちゃんが誰よりも夢中になる瞬間(ゲームが大好き)があって、そういうときはググッと存在感があらわになる。それがかわいいやらおかしいやら、みんなで大笑い。しーちゃんはというと、とぼけた表情で「えぇそぉ〜?」。表情といっても見える存在ではないので顔があるわけではなく、そう感じるということなのだけれど。

みんながありのままを愛していて無理がない。そこには肯定しよう、否定するのはやめようといった気遣いが一切なく率直で素直。そのまんま。「魂の波動が高い=純粋」というのはこういうことなんだなぁと思う。

人間もこんな風にありのままで生きていけたなら、どんなにラクだろう。私は思春期の頃、ありのままで生きることを周りに理解してもらえなかった。社会に順応しようという器用さを持ち合わせていなかったので大変な思いはしたけれど、不器用というわけではなかったんだなぁと、今なら思える。

この30年、ありのままで生きるために自分の居場所を開拓してきて思うのは、人間社会でありのままに生きるのはとても難しいことだけれど、不可能ではないということ。自分を肯定するでも否定するでもなく、相手を肯定するでも否定するでもない。そういう人間関係を築き、そういう居場所を開拓していくことはできる。

思春期の頃から鬱病と隣り合わせ。適応障害に悩まされたりもしたけれど、これは魂で生きたいという思いが強く、魂と社会との兼ね合いがとれずに脳が疲弊したから。これが私。ありのままで生きるしか私にはできないし、こういう自分を肯定しようとも否定しようとも思わない。それってとても気持ちがいい!

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