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*小説《魂の織りなす旅路》 7年分の涙

少年は己の時間を止めた。目覚めた胎児が生まれ出づる。不毛の地に現れた僕は何者なのか?

【7年分の涙】

 「こんにちは。」

 大学図書館の裏庭で本を読んでいた僕は、頭上から降ってきた突然の聞き慣れない声に驚き、体をビクリと痙攣させた。

 「驚かせてごめんね。あなた、いつもここで本を読んでいるでしょ? ずっと気になっていて。思い切って声かけちゃった。」

 本から目を外した僕は、彼女の人懐っこい笑顔にどぎまぎしながら、ぎこちなく答える。

 「ここは人気がなくて静かだから。」

 「これ、キャンプ用の折り畳み椅子だよね。」

 「あ、うん。」

 「ベンチに座るでも芝生に座るでもなく、折り畳み椅子を持参してくるなんて、面白いね。」

 「芝生はお尻が濡れることがあるし、ベンチのある場所は人通りがあって落ち着かないから。」

 その翌日、折り畳み椅子を持参してきた彼女は、なんのためらいもなく僕の横にその折り畳み椅子を広げた。
 1人になりたくてここにいる僕は正直迷惑に思ったが、彼女は屈託のない微笑みを見せると何も言わずに本を読み始めた。それから僕たちは、そのまま一言もしゃべらず本に読み耽った。
 陽が傾き空が赤く染まり始めたころ、折り畳み椅子を閉じた彼女は

 「ああ、ほんと! ここでの読書は気持ちがいいね。私もハマりそう。」

と背伸びをした。そうして折り畳み椅子を畳むと、また来るねと手を振り去っていった。

 以来、彼女は週に2回ほどのペースでここに来ている。初日に持ってきた簡易の小さな折り畳み椅子は、早々に、座り心地が良さそうな背もたれのある折り畳み椅子に代わり、そのうち膝掛けや、飲み物が入ったボトル、お菓子まで持ってくるようになった。
 彼女はこの場所で過ごすひとときを、心から楽しんでいた。それは、時間の空白を埋めるためだけにここで本を読んでいた僕にとって、新鮮な驚きだった。ここで過ごす1分1秒を堪能し、この空間に生まれる一瞬一瞬を全身で味わう。いつしか僕は、そんな彼女に惹かれていった。

 彼女はときおり僕に話しかけてきたが、それはいつも短い一言だった。

 「今日の風は柔らかいね。」

 「あの空の透けるような青が好き。」

 「今日は本の文字が楽しげに踊っているように見えるの。」

 「あの鳥の鳴き声は悲しげに聞こえるね。」

 僕は彼女の発した一言一言を、頭の中で何度も何度も反芻した。

 ある日のこと、彼女はマグカップを2つ用意して、僕に熱々のコーヒーを注いでくれた。コーヒーからほろ苦い、芳ばしい香りが漂ってくる。飲み慣れているはずのコーヒーの豊かな香りに驚いていると、どこからか小さな水音が聞こえてきた。

 「この水の音、なんだろう?」

 「湧水でしょう? 大学の敷地内に湧水が湧いているなんて素敵だよね。」

 「湧水が湧いているの?」

 「うん。ここから歩いてすぐのところ。緑に覆われているから、気づきにくいかもしれないけれど。私、ここでの読書は、この水音も気に入っているの。最高のBGMだと思わない?」

 なぜ、今までこの水音に気づかずにいたんだろう。不思議に思いながら水音に耳を傾けた僕は、いつしか全身で周囲の音に聞き入っていた。湧水の音、風に揺らめく樹々のさざめき、大学図書館へ出入りする人の足音、ここからずっと離れたところにある、テニスコートでボールを打つ音。
 熱々のコーヒーを一口すすると、喉から鼻に抜ける香りに心が震えた。僕の五感が開かれていく。木漏れ日が暖かく僕の肌にそっと触れた。僕の両目から涙が溢れ出す。次から次へとこぼれ落ちる涙を、僕は止めることができない。
 彼女はそっと、僕の手にハンカチを握らせてくれた。僕は嗚咽を堪えるのをやめて、7年分の涙を流した。止まっていた僕の時間が流れ始める。僕は両腕で自分を抱きしめた。

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