*小説《魂の織りなす旅路》 暗闇
【暗闇】
最近、暗闇と自分が同化しているような気分になることがある。この目はもう光すら感知できないのだ。昼も夜もなくなって時間の感覚が鈍くなり、体の境界線が薄ぼんやりとして、僕は空間と融和する。
「お父さん、私がお腹の中にいた頃のお母さんのこと、覚えてる?」
縁側でお茶をすすっていると、庭いじりをしている娘が話しかけてきた。
「ああ。いつも大きなお腹をそれは愛おしそうにさすっていたよ。」
「お母さんはね、よく私にお父さんの話を聞かせてくれたのよ。」
水鉢に流れ落ちる水の音に乗って、娘の声がこだまする。お母さんはね、よく私にお父さんの話を聞かせてくれたのよ。聞き違いではなかろうか。娘は一体、何を言っているのだろう。妻は娘を産んだときに命を落とした。母親と話す機会など娘にはなかったのだ。
僕が困惑して何も言えずにいると、娘は縁側に上がってきて隣の籐椅子に腰を掛けた。いたずらっぽい声でクスクスと笑いながら言う。
「びっくりした?」
ほっとした僕は固まっていた体を緩めた。
「なんだ冗談か。驚いたよ。急に変なことを言い出すものだから。」
「あー違う違う。本当の話なの。冗談ではなくて真面目な話。」
娘は急に真剣な声になった。
「冗談ではなくて、真面目な話?」
「そう。真面目な話。お母さんのお腹の中にいたときのことよ。私ね、お腹の中でよくお母さんとおしゃべりをしていたの。」
幼い子どもは胎内にいた頃のことを覚えているという。しかし、成長するにつれ忘れていくのではなかったか。もうすぐ40になろうという娘が、それを覚えているとでもいうのだろうか。
「耀(ひかり)はお腹の中のことを覚えているということかい?」
「そう。はっきりくっきり覚えているの。」
「初めて聞くなぁ。そんなことを覚えていれば、子どもなら話しそうなもんだが。子どもの頃の耀は、お父さんにそんな話はしなかったぞ。」
「話すタイミングじゃなかったのよ。物事にはね、何にでもタイミングというものがあるの。子どもの頃はほんと、言いたくて仕方がなかったんだから。頑張って我慢していたのよぅ。」
娘の口を尖らせたような声の響きに、僕は苦笑いしながら言う。
「よく我慢したもんだ。」
娘は昔から、少し変わったところのある子だった。大人が驚くような含蓄のある言葉を口にし、思索に富んだ深い眼差しをたびたび見せた。精神世界と向き合っているようなところがあったので、新興宗教に出会ったらのめり込んでしまうのではないかと心配になるほどだった。
しかし、娘は新興宗教に夢中になることも、現実から目を背けることもなく、自分に合う仕事を見つけ自立した。人間が持つ、社会が持つ不条理さや理不尽さ、複雑さを人一倍感じて、人一倍考える子だった。よく社会に適応できたものだと思う。
「本当に、覚えているんだね?」
「そうよ。本当のこと。私、嘘つかないでしょ。嘘なんてつけない性格なんだから、本当のことよ。」
確かに娘は嘘が苦手だ。嘘というごまかしが娘には耐えられないのだろうと思う。多少でも嘘をつけたならもっと楽に生きていけるだろうに、不器用というか、生真面目というか、頑固というか。しかし、僕は娘のそんな気質を愛している。
「お母さん、お父さんのことが好きで好きでたまらないのよって、いつも言ってた。」
「はははっ、そうかぁ。不思議だよなぁ。お母さんは朗らかで清々しくて、とても魅力的な人だった。けれど、お父さんは寡黙というか、根暗というか・・・なぁ?」
娘のクックックッと肩を震わせるような笑い声が聞こえてくる。
「根暗ではないんじゃない? まぁ、寡黙かもしれないけれどねぇ。お母さんは差異が小さいお父さんと一緒にいるのが心地よかったのよ。」
僕は言葉を失った。確かに妻は僕にそう言った。なぜ陰鬱な性格の自分を選んだのかと、妻に尋ねたときのことだ。あなたは差異が小さいからと、妻は答えた。
「あ、お父さん、今驚いたでしょう? だから嘘じゃなくて、冗談でもなくて、本当のことなんだから。」
「ごめんごめん。信じるよ、信じる。それにしても、耀はお母さんのお腹の中にいたとき、差異なんて言葉を知っていたのかい? どうやったら赤ん坊がそんな難しい話を理解できるんだろうなぁ。」
「確かに不思議だよねぇ。でもね、なんだろ、言葉じゃないんだよね。感覚で伝わってくるの。その感覚をいろんな語彙を覚えた私が、あとから言葉に当てはめていったって感じかなぁ。」
「なるほどなぁ。でも、差異って言葉は、お母さんが実際に使った言葉だよ。よくこの言葉を当てはめたもんだ。大したもんだ。」
「ピンとくるんだよね。これだって。だからお母さんの使っていた言葉と同じになるんだと思う。」
あまりにも非現実的な話だが、僕には不思議と自然なことのように感じられる。
「お母さんは、お腹の子は絶対女の子だって、調べる前から言っていたんだよ。調べてもいないうちから、女の子用のベビー用品をどんどん揃えていくんだ。あまりにも確信に満ちているもんだから、お父さんには止めようがなかった。」
「うん。だってお母さんは本当に知っていたんだもの。当然よぅ。」
「お腹の中の耀が、私は女の子よって教えたのかい?」
「うーん。ちょっと違うなぁ。」
娘はしばらく口をつぐんだ。それからふぅっと深呼吸をすると、唐突に話題を変えた。
「ねぇ。今、お父さんの目は明暗もわからなくなっているんだよね。」
話題が急に変わったので一瞬躊躇した僕は、娘の真剣な声色にこれから何が話されるのかと緊張しながら答える。
「ああ。真っ暗で昼も夜もわからないよ。」
「それって、暗闇と同化するような感覚にならない? 自分の体の境界線がわからなくなるような。」
「そうなんだよ。なんなんだろうなぁ、あの自分の体が空間に溶け込んでいく感覚は。」
こう答えたあと、目が見える娘になぜこの感覚がわかるのだろうと奇妙に思う。
「そういう感覚なのよ。胎内って。」
「ああ、なるほど。胎児は目が見えないのか。」
「でね、その感覚を研ぎ澄ましていくと、お母さんの魂と触れ合うことができるってわけ。」
「たましい・・・か。」
「あのね、変な宗教ではないからね。私が実際に感じているって話なんだから。そういう怪しいのと一緒にしないでよぅ。」
娘の声と水鉢の水の音が重なり合い、その向こう側から妻の声が聞こえてくる。
《魂だなんて変に思うでしょ。でもね、何かの宗教とかいうんじゃなくて、私はそう感じているって話なの。》
僕にどう話したらよいものかと不安げに口を尖らせているだろう娘に、僕は言った。
「ああ、わかるよ。お母さんも同じことを言っていたからね。」
「お母さんも?」
「ああ。魂のことを話していたときに、宗教とかいうんじゃなくて、私はそう感じているんだってね。お母さんが耀を妊娠するよりずっと前の話だよ。」
「そっかぁ。お母さんは魂が解放された人だったから、お父さんに話さずにはいられなかったんだね。」
「魂が解放されたって?」
「だからね、さっき言った感覚を研ぎ澄ましていくと、魂が解放されるの。」
「何から?」
「体という物質よぅ。体の境界線から魂が解放されるの。お父さんの言う、空間に自分が溶け込んでいくような感覚っていうのはね、魂が体から解放されて・・・ああ、上手く言葉が見つからないなぁ・・・その、ね、魂にしか感じ取ることのできない何かがあるのよ。それを感じ取れるようになるってことなの。」
「魂にしか感じ取れない何か、ねぇ。お父さんはまだ何も感じ取れてはいないよ。体の境界線が空間に融和していく感覚はとても気持ちがいいけれどね。」
「これからよ。これから。私とお母さんはそれができたから、おしゃべりができたの。物質で会話していたんじゃなくて魂で響き合っていたのよ。」
次章【目覚め】につづく↓
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