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*小説《魂の織りなす旅路》 少年

少年は己の時間を止めた。目覚めた胎児が生まれ出づる。不毛の地に現れた僕は何者なのか?

【少年】

 少年は自転車カゴに長靴を放り込むと、颯爽とペダルを漕ぎ始めた。このままどこまでも気の向くまま自転車を走らせよう。

 ぼくは自由になる。

 昨夜から今朝にかけて降っていた雨はやみ、その名残りがかすかにアスファルトを滲ませている。空は青く雲ひとつない。快晴だ。
 少年はペダルを踏む足に力を込めた。軽やかに回転する2本の足が、少年を既知の風景から未知のそれへと誘(いざな)ってくれるだろう。少年にとっては未知こそが自由なのだ。

 少年は一心に自転車を漕ぎ、いくつもの見知らぬ景色を通り抜けた。陽は傾き、空がピンク色に染まりはじめる。名も知らぬ寂れた町。少年は小さな雑貨店に目を向けると、店先の路地に自転車を停めた。薄いガラスがはめ込まれた引戸の向こうに、菓子パンや団子が置かれた低い棚が見える。客は1人もいない。
 少年がゆっくり戸を引くと、店内にガラガラガラッと大きな音が響き渡った。目の前の棚には豆饅頭や一口サイズの羊羹、みたらし団子やあんパンが置かれている。おばあちゃんが好きそうなものばかりだと少年は思う。
 隣の棚に目をやるとがんづきが目に留まった。ほかのものに比べて一際大きい。これなら腹持ちがいいだろうし、少しずつ食べればしばらくは食いつなげそうだ。
 少年はがんづきをひとつ手に取り「すみませんー。」と声を上げた。そのか細い声は一瞬で静寂に吸い込まれてしまう。

 「あのー、すみませんー。これをくださいー。」

 もう少し大きな声を上げてみるが、なんの反応もない。誰もいないのかな?少年は背伸びをして帳場台の奥を覗き込んだ。
 帳場の背には、藍色の生地に白く太い線で大きなとんぼが描かれた暖簾がかけられている。目を凝らし暖簾の隙間から隣の部屋を覗いてみた。向こう側の空間は真っ暗で何も見えない。
 トイレにでも行っているのかな。少年はしばらくそこで待つことにした。しんと静まり返った冷たい空気が少年を包み込む。
 変だな。少年は耳をそば立てた。なんでこんなに静かなんだろう?真夜中だってもう少し音がするよ。まるで耳を暗闇の中に突っ込んだみたいだ。
 ぼくの耳が消えてなくなっちゃったのかな?両耳に手を当ててみる。大丈夫。ちゃんとついている。コツコツコツ。帳場台を叩いてみる。大丈夫。ちゃんと聞こえる。ぼくの耳が変なんじゃない。ここが静かすぎるんだ。

 「すみませーん!」

 少年はもう一度、今度はもっと大きな声で叫んでみたが、返ってきたのは声の余韻だけだった。きっと留守なんだ。少年は帳場台に100円を置いて店を出た。

 少年は通りから漂ってくる夕方の匂いが大好きだ。ここは焼き魚、ここは餃子、この家はカレーライス。ぼくがこうして歩いている同じ時間に、料理をしている人、テレビを見ている人、お風呂に入っている人がいる。夕方は、人々の息づかいが一番生々しく感じられる時間だと少年は思う。
 しかし、ここにはそれがない。どうやら人がいないのは雑貨店だけではないようだった。夕飯の匂いはどこからも漂ってこないし、台所やお風呂の水音も聞こえてこない。
 路地はこんなにも狭く、家々にはちゃんと明かりが灯っているのに、物音がまったく聞こえてこないのだ。人の気配が感じられない。まるで、ぼくの時間だけが流れているみたいだ。
 狭い路地を抜けると川原が見えてきた。川沿いの遊歩道には、犬の散歩をしている人も、マラソンをしている人もいない。そこにいるのは少年だけだ。  
 少年は自転車を降り、眼下に流れる川を眺めた。川岸には草木が生い茂り、空を見上げるとピンク色に輝く雲の向こう側に、淡い水色の空が広がっている。
 ここには誰もいない。あるのはぼくの時間だけだ。少年は着ている服も、靴も、手も、足も、自分の全部が夕陽色に染まっていることに気がついた。
 ぼくは夕陽になる。少年がふとそう思ったとき、草木がにわかにざわめいた。柔らかな風が少年を優しく抱擁する。
 ぼくは風になる。少年は生い茂る草木をかき分け、川辺まで降りていった。

次章【不毛の地】につづく↓

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