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家族内で自分の役割がまだ見えてこない件

母親・父親の役割として
母:子が小さいときのお世話
父:子が成長してからの相談相手
という、ざっくりとした役割の区別があると思う。

ただし
↑ はジェンダーによる役割の固定が含まれており、
今そしてこれからの時代にそぐわない。

この古い価値観による母親・父親の役割の区別は、
端的にかつ極端に表現すると
「子が小さいうちは父の出番はない」
ということを示している。

こう言い切ってしまうと時代錯誤もいいとこだ。

しかし現実には、
「出番がない」とまでは言わないまでも
どうしていいか分からず右往左往する父親は多いと思う。

意欲はあるのにスキルがない。

しかし母親だって右往左往する。

育児は夫婦の問題。
母親だけが初めからスキルがあるわけではなく、右往左往する中で父親より母親の方が早めにスキルを身に付けるから、父親は出遅れ感を感じる。

出遅れても腐らずに一歩抜け出した妻に追いつこうと死に物狂いになる夫は、遅かれ早かれ妻に追いつき、本当の意味で夫婦二人三脚、並走できる。

しかし出遅れ感からすぐに意気消沈してしまう夫は、妻との差を一方的に開けられ続け、置いてけぼりを食らい、「子が小さいうちは父の出番はない」状態に陥ってしまう。

多様性の時代。
夫婦・家族の形は無限にあり、つらつらと書いてきたことは1つのケースに過ぎない。

ただ、スタートダッシュにおいて出産を経た妻・母親がおのずと一歩リードすることは、世の多くの夫婦でも言えるのではないかと思う。

こと、うちに関しては、ずっと妻がリードしてきた。
僕は妻の背中を見ながら走ってきた。そして今も走っている。
料理はヨシケイさんのお陰で最近やっとスタートラインに立とうとしている。

ヨシケイさんのお陰で頑張れてはいるが、
「家族経営」という見かたで言うと、
最高経営責任者である妻に指示を仰いでいる状況に変わりはない。

・洗濯
・子どもらの学校のプリントの整理
に関しては、僕でもエリアマネージャーぐらいは名乗れる。

もし冒頭の
母:子が小さいときのお世話
父:子が成長してからの相談相手

という「古い」価値観に敢えて乗っかるとしたら、
僕の父親としての役割はもうじきに、言うてる間に増えては来るはず。

現に、子どもらとは家ではよく話をする。
今のところ、だんまりを決めこむ思春期のあるある状態には(ぎりぎり)至っていない。
子らの話をよく聴く。

一方で、僕も話を聴いてほしいのかも、とも思う。
取り繕っても仕方ないのではっきりさせておくと、
承認してほしい、承認欲求で役割がほしいのだ。

話が逸れてきた。


役割に捉われるのは本末転倒。
自分のやるべきことに日々集中する。
その結果、次のやるべきことが見えてくる。
やるべきことは求めて現れるものではなく自然に浮き出てくるもの。
そして浮き出て見えてきたものに集中する。日々繰り返す。
その全体像がきっと役割になる。

もう一度初心に立ち返ろう。
アルフレッド・アドラーさんに立ち返ろう。
自分の課題に集中

自分中心に考えるから「自分が置いてけぼり」と思うけど
それは独善的すぎる。

むしろ妻の視点に立つと
僕が「妻を置いてけぼりにさせている」。
1㎞ぐらい先を独走している妻。直線道路なら姿が見えるか見えないかぐらいの位置。いや、確実に見えない。まずは200mぐらいの射程位置に付けたい。
妻を1人にさせないようロングスパートをかけていきたい。
シドニー五輪の女子マラソン 高橋尚子選手のように。



今日もありがとうございました。
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