#15 【授業レポート 02】「役に立つ」ことがすべてなのか? - 倫理学に触れて思うこと
こんにちは!法政大学キャリアデザイン学部2年のなかのっちです。
今回も、高校時代の友人からのリクエストで学部や大学での学びに関して私の考えを交えてお話してみましょう。
今回は「倫理学」の授業から、「役に立つ」という考え方について考えてみたいと思います。
では、今回もお付き合いください(^▽^)/
倫理学とは?
そもそも、倫理学とは何でしょう。
最近では、高校の社会科として「倫理」の授業を行うこともありますが、私の高校では「倫理」の授業はなく、大学で初めて倫理学に触れることになりました。
※私の1つ下の代(2017年入学生)からはカリキュラム変更に伴い、「倫理」を必修にしています。
倫理学が対象にするのは、「行為(実践)」そのもの。
倫理学とは、規範の根拠について考える学問です。
※https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/tsuchiya/class/ethics_outline/outline1/intro.html
と定義する方もいます。
つまり、倫理というのは、社会規範・道徳を指しており、倫理学はそれらの根拠を明らかにする学問というわけです。
それは何らかの行動に対して、社会規範や道徳に照らし合わせて良し悪しを根拠を明確にした上で評価するわけであり、それが倫理であると私は理解しました。
※倫理学の初学者の理解なので違うかもしれないです…(´;ω;`)
役に立つ?役に立たない?
どこかに「それ自体として善い」もの=自己目的が存在すると考える場合、その連鎖は止まりません。
どういうことかというと、「~のために役立つ」と思う(これを自己目的にする)ことで我々は安心。しかし、この連鎖に依存することは、自己喪失を招く可能性があると指摘していました。
つまり、自己満になってしまう可能性があると。
本当の意味での自己充足を失う可能性もあると考えられています。
このような【「~のために役立つ」と思う】というベクトルが非常に強いのが日本です。
その事例、私の解釈で話してみたいと思います。
役に立つことを求める社会
「あなたは社会の役に立ってるんですか?」
それを求める社会になるとどのような社会が訪れるでしょう。命を選別する可能性まで見えてきませんか?
あなたは社会の役に立っていないので必要ありません。
そんなことを誰かが評価する社会になる可能性。恐ろしいですね。
そもそも、役に立つことが全てでしょうか?
何か目標に向かって努力している時、社会の役に立てていないかもしれない。
日本人は特にこの傾向が強い印象があります。
参議院選挙、障害を持つ2名の立候補者への批判。「障害を持っている人は社会の役に立たない、お荷物だ。」そんな批判が飛んでいました。
党の代表も参議院選挙に出馬しており、障害者を使って票稼ぎをしてると強く批判。
本当に批判すべき事案だったのでしょうか。
オリンピックに向けて、全ての人が活躍できる社会へ、そのための障害者施策を決めるときに、いわゆる健常者しかいない国会に何が分かるのでしょう。
彼らを批判することで何が生まれたのでしょう。
社会の役に立つか否かのベクトルは本当に正しいのでしょうか?
特に我々日本人は、役に立つことに執着し過ぎてしまっています。キャリア形成でもそうでしょう。
どのように社会の役に立っているのか
どのように社会の役に立てばいいのか
社会に出ることへの不安
自分って何ができるのだろうか
そんな悩みを抱えて社会へ飛び出ていく人々。
役に立つか否かというベクトルで考えた時、人は社会における道具になってしまいます。
我々は自立した生き物であり、各々が自由に生きることが保障されています(ある一定の社会規範を守ることによって)。
私たちは社会を安定させるための道具なのでしょうか?
おそらく、その回答は「NO」
我々は各々が目指す未来に向かって日々前進し、時に後退・停滞を繰り返して成長していくものだと思います。
終わりに
さて、今回は倫理の考えに触れて気付かされたことについてまとめてみました。
倫理学に触れるのは今年が初めてであり、正直理解はできていません。無論、この記事の中にも誤りは多々あることと思います。
ただ、noteは自分の思いを等身大で発信することができる場所。
正しい情報かどうかは判断してもらえればと思いますが、皆さんに考えていただきたいことは「社会の役に立っているか否か」を押し付けないで欲しいということです。
ではまた次回。
それではぁ〜!
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