「人間」とは何か

『羅生門』(芥川龍之介)のクライマックスに次のようにある。

――老婆の話がおわると、下人は嘲けるような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手をにきびから離して、老婆の襟上をつかみながら、噛みつくようにこう言った。
「では、おれが引剥ぎをしようと恨むまいな。おれもそうしなければ、餓死をする体なのだ。」――

進学校であれば大抵は高校1年生で扱うであろう教材だ。私自身、高校1年生のときの国語総合の授業で学んだ。芥川は人間の醜さをとことん描く作家であった。羅生門の主題も「極限状況における人間のエゴイズム」と解釈されている。
悪を許すのもまた、悪の心である。
人間はこんなにも醜い生き物なのか。
高校1年生の私は大いにショックを受けた。人間存在そのものが苦ではないか。そんな厭世観じみた境地にふけっていたように思う。

そんな折に私を救ってくれたのは、『アンネ・フランクの記憶』(小川洋子)であった。小川洋子がミープ=ヒースに取材した様子を記した随筆だ。ミープ=ヒースはユダヤ系住民を保護し、いわゆる“アンネの日記”を戦時中にも保管していた人物である。その一節に次のようにある。

――(小川)「フランク氏から潜行の計画を打ち明けられ、援助を頼まれた時、即座にイエス、と答えられましたね。このご本の中でも、あそこは最も心に残る場面の一つでした。なぜ他人のために、自分の命を危険にさらすことができたんでしょうか」
(ミープ)「人間として当然のことをしただけです。あの時代、あの状況に置かれた時、なさねばならないことをしたのです。時代が私にやらせたのです」
(小川)「わたしが想像するに、あの時代、自分が生きていくだけで精一杯で、他人を助ける余裕などないのが普通じゃないでしょうか」
(ミープ)「そうかもしれません。しかし、それは私の問題じゃありません。私は自分が考えるところの当たり前の行動をしただけです」――

ミープ氏の発言録を読んだとき、胸の奥底からこみあげてくるものを感じた。
ああ、人間とはこんなにも尊いのだ。
ああ、人間とはこんなにも強いのだ。
ああ、人間とは…

中学時代に扱った国語の文章の主題は「友情」であったり、「家族」であったり、「夢」であったり、「希望」であったりと、真・善・美とされるものを称賛するものだからであった。だからなのだろう、高校の授業で扱った小説は「エゴイズム」「孤児根性」「孤独」「自我」といった毒、それも猛毒であった。いや、“劇薬”と言った方が良いのであろう。
どちらが「良い・悪い」、どちらが「重要・不要」という話ではない。それぞれの時期に、両方の要素が必要なのだ。

私は生徒たちには両極端を教えたい。その結果、生徒たちが「人間って醜い生き物だ」と思うようになっても、「人間って尊い生き物だ」と思うようになっても、どちらでも私の知ったことではない。ただ、そう思うようになった過程が恵まれていなかったとしたら、それは不幸であろう。「人はなぜ生きるのか。曰く不可解なり。」(藤村操)と思うのか、「これが人生か、さらばもう一度。」(ニーチェ)と思うのか。それ自体はあくまでも個々人の自由である。

私はと言えば、高校の教育課程は劇薬すぎたかもしれない。しかし、今なら思う。
「人間って、そんなに悪くないんじゃないか?」と。

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