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効率だけではたどり着けない

効率よく時間を使いたい。
どの人もそう考えます。

最近の子供たちは、英会話やダンスなど学校の授業、SNSなど含め今の大人たちの育った頃よりストレスが多いと感じます。ストレスにつながる要素が多い気がする、というのが正しいでしょうか。

そうなると、ヴァイオリンもなるべく効率よく教えてあげたいと思います。

しかし...手に入れるべきテクニック、覚えたり、理解しなければいけない知識は変化しません。
われわれ講師側で工夫できるのは、説明、体験、経験、それらを整理して与える順序の工夫を凝らすことです。

これまで多くの場合、こういう工夫は成功してきたと思います。問題は、この効率の良さはテクニックと技術のことに過ぎないということでしょう。

イダ・ヘンデルがギャレットに語ったという言葉。
「わたしは音楽を教えることはできない。どうやって教えるかを知らない」

先生はヴァイオリンの扱い方を説明できるけれど、どう弾きたいかは自分でしか見つけられないでしょう?という意味です。導いたり、提案したり、本性をあばいたり、という取り組みはできますが、結局本当にそう弾きたかったのかわかるのは、弾く本人だけ。

さて、どう弾きたいか?というのは簡単には説明できません。この点について今まで僕の印象に残った事例や経験を挙げてみたいと思います。

あるインタビューで某オーボエ奏者の方は「その曲をどう吹いていいかわからないときはとにかく何回も何回も吹いてみる」と答えていました。

もちろん、ある程度自分なりの様式を見つけられた演奏家は初見でもそれなりに演奏できるでしょう。でも、それがその演奏家の本心であったり本望のやり方かと問われたら違うはずです。

あるヴァイオリニストは先生がそこにいるだけで、あるいは先生に合わせて弾いてもらうだけでまるで違う世界を体感できた、と言います。これは先生としては目指したいレベルですね。
一緒に弾いて刺激を受けられたということは、何度も弾いて悩んだり迷ったりした経験と時間がその曲に対する感覚を開いているんだと思います。

自分もまったく同じシチュエーションを体験したことがありますが...メニューインはエネスコのレッスンで三回シャコンヌを繰り返し弾くよう求められたそうです。そして、そこで見つけるものがあったと。初めて取り組んだときのシャコンヌというのは体力も集中力もこの楽章だけでもうヘトヘトになります。自分も一回のレッスンで三回弾くよう求められた時には先生は正気なのかと疑いました。でも、そこで初めてわかることが案外あるんです。

そもそも、ある程度整った演奏家なら細々した調整を積み重ねて、一つの本番に合わせることもできるでしょう。でも子供はちがいますね。全体像を見ることと、流れをコントロールすることと、何より、何があっても止まらないという訓練は通して本気で弾くしかないです。

そして、どんなところで転けるかというのも何度も繰り返し通して弾かないと気づけないです。自分自身のことだとしても、繰り返し何度も経験しないとわからないものです。本人しかわからないバランス感覚だと思います。

まじめに基本を抑えている子ほど、何度も弾くことは大切。一方で通して弾くことしかしない子は細かい分解と基礎訓練が必要。指導者としてはその時々でしっかり判断しているつもりです。練習曲のように名曲を弾いても普通の演奏ですから。

ほんとうに、頭の中には一歩先の音が流れて、客席の呼吸すら感じられて、指も腕も自分の呼吸で動いていく...そんな経験、僕自身まだ一回しかないです。ビーバーのパッサカリアでしたが、これはもうどう弾きたいかというのが練習のとき形式的、他人事の感覚になってしまって、抜け出すためにひたすら繰り返し弾いていましたね。そしたらいろんな偶然なのでしょうが、お客様も自分も未体験ゾーンにはいることができた。

仮にミスがあっても、ハッタリだとしても、本気で通して弾いていくと、その曲への熱量が上がっていきます。ゆっくり確実練習に落ち着いてしまう人は効率だけではわからない感覚を掘り起こしていってほしいものです。全部のことが効率だけで得られるほど音楽って単純ではないですね。


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