きれいごと
僕らは本音と建前で生きている。
「すべての人に存在価値がある」
そんな"きれいごと"を建前では言うが、本音で語ることは難しい。お金の稼げない人は社会のお荷物と扱われ、価値がないとみる人もいる。
「平和と安全」
これも"建前のきれいごと"だ。「国際の平和と安全を維持」と謳いながらも敵対し、戦争は繰り返され、危機は増している。
人類は蔑みや争いをやめられないのだろうか?
僕も幼少の頃には園友とよく喧嘩をしたし、中学の頃には障害者を軽んじていた。そんな自分の醜さを今も憶えている。
これらはどうすることもできない人の性で、僕らは本音で"きれいごと"を並べることはできないのだろうか?
いや、きっとそんなことはない。
福澤諭吉は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の後、「されども」と続け、"機能価値"に関する貴賤と貧富を認めたが、冒頭の言葉通りの、すべて人の"存在価値"をも本音で認められる時代がくる可能性はある。
例えば、一人ひとりのその"存在価値"に対して通貨が直接発行される仕組みならば、これまでのような建前ではなく、本音で"きれいごと"が言えるかもしれない。
金融の砂上の楼閣…、あるいはネブカドネザル王の夢に出た巨像と言うべきか。この巨像が崩れないように多くの犠牲を伴いながら、危機が訪れる度その足を作り直し、"金の頭(capital)"を支えてきた。
だが、この仕組みで金融がもたらす虚像を見直し、膨れ上がりを実態化するための無理な経済活動の必要がなくなれば、環境破壊も軽減されるだろう。
目標より450年以上遅れる見通しの貧困問題解決も、これが浸透すれば、おそらく50年以内には解決できる。
戦争も、きっと不滅ではない。
あの頃、遊具を巡って拳で語り合っていた僕も、成長し大人になった今では、喧嘩をしても言葉で語り合う。
ソクラテスやプラトンが国家に属する人々の特徴から一個人の魂の機能を導き出したように、もし国家と人の構造が相似であるならば、国家もまた成長し、子どもから大人になれば、拳ではなく言葉で語り合えるようになるはずだ。
しかし、もし今の人類が大人になりきれず滅びたとしても、"きれいごと"に本音で向き合ってさえいれば、夢想した魂や物質はその情報を保持し、きっとまた宇宙のどこかで共鳴し逢い、身を結び、新世界を構築するだろう。
未来のため、だから僕は"本音のきれいごと"を並べ続けたい。